景麒《けいき》は言って、兎《うさぎ》に似た生き物を泰麒《たいき》に差し出した。
黄海《こうかい》のとば口である。五山《ござん》の麓《ふもと》とも黄海の縁《ふち》ともつかぬあたりで、荒れ地に潅木《かんぼく》が生えているばかり。景麒の差し出した獣は耳の短い兎のよう。──あるいは、身の細く大きな鼠《ねずみ》のようである。
「ジャッコ? ヒソ?」
泰麒の手の中に妖魔《ようま》はおとなしく抱かれている。柔らかな毛並みの下で、心音がとことこと鳴っていた。
「ジャッコ」
たどたどしい言葉で答えたのは、景麒ではなく妖魔のほうだった。たったいま、景麒が使令《しれい》に下したばかりの小さな妖魔。
「飛鼠《ひそ》というのは、妖魔の種族の名前。これの名はジャッコです。そうですね、雀、胡と」
景麒の言葉にうなずいて、雀胡《じゃっこ》の喉元《のどもと》をくすぐる。
「よろしく」
雀胡は返答する代わりに、ちぃと鳴いてみせた。
「まだうまく喋《しゃべ》れないのかな」
「このくらい小物だと、ほとんど喋りません。片言がせいいっぱいで」
潅木の下で様子をうかがっていた雀胡を示したのは泰麒だった。逃げようとする雀胡に向かって景麒がなにごとかを唱《とな》え、振りかえった妖魔と見合うことしばし。ふたたび景麒がなにごとかを言い、名を呼ぶやいなや、雀胡はすすんで景麒の足元にやってきた。
それが折伏《しゃくぶく》のすべてで、もっとなにか緊迫した儀式を想像していた泰麒には気抜けするほどあっけなく思われた。
「いつもこんなに簡単なんですか?」
泰麒が問うと、景麒は首を振る。
「飛鼠は小物だから簡単に済んだ。大物だとこうはまいりません。見合って半日を過ごしたこともある」
「そんなに?」
驚いて見返す泰麒に、景麒はうなずいて雀胡を抱きあげた。軽くなでて班渠《はんきょ》の背中に乗せる。雀胡は班渠の耳にじゃれかかった。
「班渠ですよ。これは捕《と》らえるのは大変だった」
「へぇ……」
班渠は涼《すず》しい顔で岩場に横になったまま、雀胡が耳にじゃれつくにまかせている。
「ただにらみあっているように見えたのですけど」
景麒は苦笑する。
「ただにらみあうのですよ。こちらが気をゆるめると、妖魔は視線を断ち切って逃げてしまう。──あるいは、こちらに襲いかかってくる」
泰麒は神妙にうなずいた。
「先に気を散じたほうが負けです。逃げていくような小物ならば大事ないが、相手が大物だと気がゆるんだ瞬間に命を取られることになりかねない。視線が合って、これは駄目《だめ》だと思ったら、にらみあうまえに逃げたほうがよろしい。──もっとも、相手が大物だと転変《てんぺん》でもしないかぎり、逃げるのも難しいが」
「はい……」
うつむいた泰麒を見て、あわてて景麒は言い添えた。
「心配はない。女怪《にょかい》が時間をかせいでくれます」
「女怪に危険はないんでしょうか」
景麒は苦笑した。
「自分の手におえないような妖魔《ようま》がいれば、出会うまえに女怪が教えてくれます。注意していれば、泰麒にもおわかりになる。しょせん獣は敵の気配に敏感なもの」
泰麒は少しぽかんとして、困ったように笑った。
「そうか、ぼくは獣なんですね。……すぐに忘れてしまうんです」
「お忘れになってもかまわぬていどのことですよ」
「はい。──雀胡《じゃっこ》という名前は、どこからおつけになったんですか?」
景麒は雀胡に目をやる。使令《しれい》として役に立つほどの妖魔ではない。王宮の庭に放してやるしかないだろう。
「わたしがつけたのではありません。たぶん……それがあの者の名前なのだと思います」
泰麒はきょとんと首をかしげた。
「にらみあって、相手が根負けをすると、相手の覇気《はき》がゆるむ。その時に相手の名前を読み取るのです。よくはわからないが、たぶんそうなのだと思う。ふっと、頭の中に音が湧《わ》いてくるのですよ。それで呼んでやると、妖魔はすすんで足元にやってくる。以後二度と、麒麟《きりん》に逆らったりはいたしません。麒麟が死んで解放されるまでは」
言ってから景麒は微《かす》かに笑った。
「文字はあて字です」
「なにか呪文《じゅもん》みたいなものを、唱《とな》えていらっしゃいましたよね」
「あんなものは、なくてもよいのですが。あれば役に立つ、その程度で」
「はぁ……」
釈然としない様子の泰麒を乾《かわ》いた岩の上に座らせる。景麒もその隣に腰を下ろした。
「妖魔を使令に下すには、妖魔と契約を交わします。──というより、縛《しば》るといったほうが正しいか」
「縛る……」
景麒はうなずく。
「妖魔《ようま》は天の摂理《せつり》から外《はず》れたもの。これを天の摂理に組み込み、二度と外れぬよう縛《しば》る。それを受け入れたものが使令《しれい》になる」
「……わかりません」
景麒は溜《た》め息《いき》をつく。
「すみません……」
詫《わ》びる声にあわてて景麒は言い添えた。
「謝《あやま》ることはありません。泰麒にはわからなくても無理はないのですから」
「はい……」
「天帝はこの世を創《つく》られた。人々は幸いなれと、この世の摂理を定められたのです。しかし、ならばなぜ人が死ぬか、病むか。なぜに人を襲う妖魔があり、災厄《さいやく》があるか。──天に深い御|思慮《しりょ》あってのことか、それとも天の御思慮をも超えたことか。いずれにしても、それは天帝が『善《よ》かれ』と思われたことの妨げにほかならない」
泰麒はしばらく考えてからうなずいた。
「いずれにしても天のなさることゆえ、推察はできかねる。ただ、生に対して死があるように、天のおかれた摂理にも、どうやら相反する摂理があるらしいことは想像できる」
「光と影みたいに?」
「その喩《たと》えはたいへん正しい。民を助けるために我ら麒麟《きりん》きりんがあり、麒麟をはじめとする幾多の妖《あやかし》がいる。そのように、民を害する妖もまた存在する」
「それが妖魔なんですね。だから、摂理の外の生き物なんだ」
景麒は微《かす》かに笑んだ。
「その摂理の外にいる生き物を、節理の中に入れるんですね? 折伏《しゃくぶく》して?」
「そういうことです。泰麒のあげた喩えで言うなら、妖魔は影の生き物。これを使役《しえき》するためには、光の中に引き出し、影に帰らぬよう、縛っておかねばならない」
「はい。──でも、どうやって?」
景麒はふたたび溜め息をついた。
「それが言葉にするのが難しい。わたしにもよくわからないのです、実をいうと。ただ、気迫なのだと思う。この妖魔を自分の支配下におくのだという強い意志の力。ただそれは、ひたすら強く願えばいいというものではない」
景麒が言うと、泰麒は困り果てた表情をした。
「──こう考えるのがよろしかろう。麒麟は『力』を持っているのだと。力の大きさは麒麟によって異なる。しかしながら、どの麒麟も確実に持っているものです」
「その力が、麒麟《きりん》を転変《てんぺん》させる?」
「はい。それは力だから、願いとはあまり関係がない。どれほど強く願っても、もっている力が小さければいくらの足しにもなりはしない。そういうことです」
「腕力みたいなものですね。足の速さとか」
「そう。──そうです」
景麒はほっと息をつく。でも、と泰麒は首をかしげた。
「妖魔《ようま》を力で光の中に縛《しば》りつけるのは、たいへんではありませんか? 少しも気を抜けないとか、うっかり妖魔を縛る力がゆるむことはないんでしょうか」
景麒はもう一度|溜《た》め息《いき》をついた。
「……すみません」
「お謝《あやま》りになる必要はない。……これは泰麒にはまだ酷《こく》なお話かもしれませんが」
景麒は言って、声を低めた。
「どうか取り乱してくださいますな。──使令《しれい》は麒麟《きりん》を食べるのです」
「……えっ」
「正確には死骸《しがい》を食べる。使令は麒麟を食べて、麒麟の力を己《おのれ》のものにする」
泰麒は班渠《はんきょ》を振りかえった。班渠は大きな頭を無表情に足の間に落としてそっぽを向く。その動作からはなんの感情も読みとれなかった。
景麒は苦笑した。
「ご心配なさるな。班渠は泰麒を襲ったりはいたしません。麒麟は光のもの。妖魔は影のもの。麒麟が自ら与えなければ、己の力にすることができないのです」
「は……はい」
「麒麟は妖魔を力でもって押さえこむ。影の中から光の中に引きずり出すのです。妖魔にもまた力があるから、強い妖魔を引きだすにはそれに見合った力がいる。妖魔は引きだされる力で、その麒麟の力を測ります」
「はい……」
「そして、麒麟が死んだあと、自分が与えられるもののことを考える。使役される価値があるかどうか、判断するのです」
「……それはわかる気がします」
「引きだすことに成功すれば、使役をことわる妖魔などいない。それだけの力が与えられることが約束されるのだから」
「だから、契約、なんですね」
「そういうことです。──影の生き物を光の中におくのだから、影に戻らぬよう、縛り上げる鎖《くさり》が必要です。そして、守護も」
「光の中で生きられるように?」
「はい。使令《しれい》を繋《つな》ぎ、守る鎖が『名前』です。麒麟《きりん》は気迫でもって妖魔《ようま》を引きだし、相手の名を読みとり、その名をあらためて与えて己《おのれ》の僕《しもべ》とする。妖魔は気迫でもって麒麟の力を測り、名を受けて将来死体を得る権利を手に入れる。──折伏《しゃくぶく》とはそういうことです」
「そして、麒麟が死んだあとに死体を食べて、新しい力を得て野生にかえる……」
「その代わり、使令として仕える間はけっして麒麟に逆らいません。麒麟を守りこそすれ、ぜったいに傷つけたりはしない」
泰麒はまじまじと班渠《はんきょ》を見る。気安い生き物が、このうえなく量《はか》りがたい生き物に思えた。班渠はそんな泰麒にちらりと視線をよこして、そうしていきなり顎《あご》を開く。
「……!」
思わず身を引いた泰麒の目の前で悠々《ゆうゆう》とあくびをして、それからくつくつと笑った。
「班渠」
たしなめてから、景麒は苦笑する。
「実をいえば、成長した麒麟は小狡《こずる》い手を使います。──泰麒は易《えき》をご存知か?」
「占《うらな》いのことですか?」
「そう言ってもまちがいではない。……大物の妖魔を狩るときには、易や遁甲《とんこう》、風水《ふうすい》の力を借ります。が、これには長い勉学がいる。女仙《にょせん》に聞けば教えてくれるが、今日明日で身につくものではない」
「はい」
「日を選び地形を選び、方角を選んで妖魔を選ぶ。使令に下す妖魔の力がもっとも弱まり、自分の力がもっとも高まるようにうまく準備をするのです。だからといって、備えがなくては妖魔を捕《と》らえられないわけではない。呪言《じゅごん》もそうです。易や遁甲ほど役には立たないから、なくてもいい。あれば便利なので使う。使うことに慣《な》れると、なんとなく使わねばおさまりが悪いような気がする、それだけのこと」
「では、べつにおぼえなくてもいいのですか?」
「覚えておきますか? わずかながら助けにはなるやもしれない」
泰麒がうなずいたので、景麒は彼の肩に手をかける。姿勢をまっすぐに正してやる。
「まず、姿勢を正すこと。これはつねに心がけなさい」
「はい」
「気には生気《せいき》と死気《しき》がある。午前は生気、午後は死気。妖魔を折伏するのは、生気の午前のほうがいい。鼻から吸うのが生気。口から吐くのが死気。必ず呼吸はそのようにすること。逆にしてはいけません。息を吐くときはできるだけそっと吐くこと。これも常日頃から心がけるように。そうでなければ身につきませんから」
「鼻から吸って、口から吐く、ですね」
「妖魔《ようま》を避けるには禹歩《うほ》」
景麒は独特の歩法を行って見せる。
──妖魔に出会い、視線を合わせるを避けるには叩歯《こうし》。特に右歯を噛《か》み合わせる槌天盤《ついてんばん》を。気を集中するには前歯を鳴らす鳴天鼓《めいてんこ》を。
泰麒は溜《た》め息《いき》をついた。
「ぼく、ちゃんと覚えられるでしょうか」
「すぐに覚えます。身につけるには修養が必要ですが、それは乞《こ》えば女仙《にょせん》が教えてくれる」
「はい」
「雀胡《じゃっこ》の足を止めたのは九字呪言。手をこう」
景麒に言われるままに泰麒は両手を組む。
「これが剣印。──腰に構え、抜刀して四縦五横」
泰麒の手をとって動かしてやる。
「臨兵闘者皆陳烈前行《りんびょうとうしゃかいぢんれつぜんぎょう》、と」
「……本当に難しいな」
「少し練習すれば、慣れます。必ずまっすぐに描くように。──相手が覇気《はき》を失ったら、呪言を唱《とな》えるが、これには易《えき》の知識がいる。いまのところは、こう覚えておかれるといいでしょう。神勅明勅《しんちょくめいちょく》、天清地清《てんせいちせい》、神君清君《じんくんせいくん》、不汚不濁《ふおふだく》、鬼魅降伏《きみこうぶく》、陰陽和合《おんみょうわごう》。急急如律令《きゅうきゅうにょりつれい》、と」
泰麒は困りきった表情で景麒を見上げる。景麒は苦笑した。
「鬼魅は降伏すべし、陰陽は和合すべし、急急如律令《いそぎさだめのようにせよ》」
「ええと、……はい」
「そして右手を頭の上に掌《てのひら》を突《つ》いて天意を受け、左手で足元を示して名前を呼んでやる。音だけが浮かぶ場合もあるし、文字ごと浮かぶ場合もある。それは麒麟《きりん》の本性が知っています」
「はい」
泰麒は息を吐く。景麒は肩を落とした小さな麒麟の背を叩《たた》いた。
「死気《しき》に入るまでにはまだ時間がある。うんと小さな妖魔で一度やってごらんなさい」
泰麒はうなずいたが、結局彼の呪言に足を止めた妖魔は、一頭とていなかった。