夏至《げし》の翌日から、甫渡宮《ほときゅう》に至る道を見渡せるあたりに交代で女仙が詰めるようになった。甫渡宮には盛大に進香《しんこう》が行われ、女仙の衣服は華やかなものになる。宮のしつらえも、泰麒の衣服もまた贅沢《ぜいたく》なものになった。
──蓬山《ほうざん》に祭りが始まったのだ。
泰麒は捨身木《しゃしんぼく》に近い奇岩の上にいる。迷路の中にいれば花の匂《にお》いのする風が、奇岩の上に登ると潮《しお》の匂いばかりがする。それがひどく不思議《ふしぎ》だった。
南西の方角から、なにかがやってくる。
泰麒は転変《てんぺん》した景麒の背にまたがって見下ろした黄海《こうかい》を思い出した。
蓬山は奇岩の山、緑の奇岩が複雑な模様を描いて麓《ふもと》まで続いている。奇岩の作る迷路はとほうもなく複雑そうに見えるが、その実、甫渡宮までの道はひとつしかない。気の遠くなるような長い年月の間、無数の昇山《しょうざん》の者が通いつづけたその道は、いつしか深くえぐられてひとめ見てそれとわかった。
道がひとつしかないのだから、蓬山への入り口もまたひとつしかなかった。そのたったひとつの入り口へ向けて、三方から道が集まっていた。
道は黄海を貫いている。これも蓬山の道と同じく、長い間無数の人々がそこを通った痕跡《こんせき》だった。岩山をえぐった人の足跡、険しい斜面に刻《きざ》まれた足がかり。沼や川に投げ込まれた飛び石、荒れ地に立てられた石碑。亀裂にかかった倒木の橋、枝を払われ払われして、いつのまにか樹海《じゅかい》を貫いた細い道。
それらの道が黄海の四方、四つの門へ向けて伸びているのだ。
そのうちのひとつ、南西にある令坤門《れいこんもん》はすでに開いて閉じた。夏至《げし》にそこを越えた旅人は、いまはどのあたりにいるのだろうか。
黄海は妖魔《ようま》・妖獣の住処《すみか》だから、旅はけっしてたやすいものではない。同じ日に門を抜けた人々は隊商のように集団を作り、危険な道を互いに守りあいながらやってくる。彼らを守るための傭兵《ようへい》のような職業さえあるのだと聞いた。
「どきどきする……」
懐《ふところ》に抱えこんだ膝《ひざ》の上に顎《あご》をのせて泰麒がつぶやくと、隣に座った汕子《さんし》が静かな声を発した。
「緊張なさらず」
「うん……」
それは予感に似ている。
遊んでいるとき、女仙《にょせん》に簡単な易《えき》を習っているとき、ふと視線を上げて南西の方角を見ると、とたんに胸が苦しくなることがある。その方向に令坤門があることを思い出し、なにやらヒヤリとするような、そんな気分がして鼓動が速まる。
けっしてよい予感ではない。やってくるなにかが、怖《こわ》いもののように思えてならなかった。
「ぼくにちゃんとできるだろうか」
「できますとも」
汕子はそれしか言わなかったので、強い言葉よりも風の音のほうが耳に残った。
「……あのなかに王様がいると思う?」
「さあ」
「まだ、いないよね」
「おられないほうがよろしいですか?」
「うん……」
汕子は膝を抱えたまま身を硬くした主人を見つめる。
もしもそのなかに王がいて、蓬山を離れることになるのが嫌なのか。それとも、試されるのが怖《こわ》いのか。
いずれにしても、夏至《げし》を越えてからの泰麒の緊張は汕子にも伝わって、そばにいるのが痛いほどだった。
昇山《しょうざん》してくる者は王たらんと自ら頼むところのある者、あるいは王たるべきと周囲の人間に推挙《すいきょ》された者だから、実際のところ次王は昇山してくる者の中に圧倒的に多い。
ひょっとしたら、泰麒は王を持つこと自体を恐れているのかもしれなかった。
麒麟《きりん》は王を選ぶことによって一国の運命を担《にな》い、王はその生き方いかんによって麒麟の運命を担う。
王が道を踏み外《はず》せば、その報いは王を選んだ麒麟に向かった。王がすすむべき道を誤ったために麒麟が病む、その病を失道《しつどう》という。いったんかかれば、ほとんど治癒《ちゆ》の方法がない重い病である。ゆえに王は麒麟《きりん》の生命そのものを握っているといってもいい。
己《おのれ》の運命を他者にゆだねることの、恐ろしくないはずかなかった。
「こんなに早くには、昇ってこないにきまってる……」
己に言いきかせる口調《くちょう》だったので、汕子は黙っていた。
使令《しれい》もなければ転変《てんぺん》もできない。麒麟である自覚が薄い。自負を持てないのも無理はないから、逃げ腰になる泰麒を責められない。
「景台輔《けいたいほ》が……」
泰麒は視線を南西から外《はず》して汕子を見返した。
「おっしゃったでしょう。天がよいようにしてくださいます」
泰麒はふたたび視線を空に向けて、幼いなりに堅《かた》い横顔をさらした。
「……うん」
奇岩の上をゆく風は疾《はや》い。