ついに禎衛《ていえい》が言ったのは、夏至《げし》をいくらも過ぎないころだった。
とうとうその日が来たのだと、泰麒は朝餉《あさげ》の箸《はし》を置く。
「……はい」
朝、いつもより早くに起こされ、汕子《さんし》が用意した着物も、いつになく豪華なものだったから、なんとなく覚悟《かくご》はしていた。
蓉可《ようか》が軽く背中を叩《たた》く。
「そんなに緊張なさることはありませんよ」
「蓉可も一緒《いっしょ》に行くの?」
蓉可は微笑《ほほえ》んだ。
「参ります。ずっとおそばにおりますから」
「汕子も?」
否定されることを予感しながら問うと、案に相違して禎衛はうなずいた。
「もちろんでございますよ。ただ、汕子は隠伏《いんぷく》してまいります。姿は見えずとも、必ず間近におりますから」
泰麒は落胆の溜《た》め息《いき》をついた。隠伏とは文字どおり姿を隠してひそんでしまうことだ。それでは手を握ってもらうことも、背中をなでてもらうこともできない。
「……はい」
進香《しんこう》の女仙《にょせん》と禎衛・蓉可をはじめとする十人ほどの女仙に囲まれて小道を歩き、蓬廬宮《ほうろぐう》の果ての門の前で泰麒は足をとめた。
目の前で女仙が閂《かんぬき》を外《はず》した。
門が開くまでに、泰麒は外に広がる荒涼《こうりょう》とした迷路を思い出していたが、実際に門扉《もんぴ》が開け放たれると外の様子《ようす》は一変していた。
そびえた奇岩とそれが連なってつくる緑のうねり、奇岩の間に広がった草地。そこには色があふれている。天幕《てんまく》が張られ、無数の旗が立っていた。打たれた杭《くい》や垣、そこにつながれた馬や珍しい獣《けもの》と、そこに干された馬具や掛け布。そして、種々多様な容姿、身なりの人間たち。
そこには忽然《こつぜん》と町が現《あらわ》れていた。
思わずすくんだ泰麒の手を禎衛がとる。
「ものおじなさることはありません。気息《きそく》を整えておっとり構えていらっしゃいませ」
泰麒は目線でうなずき、姿勢を伸ばして深い息をした。
禎衛に手を引かれて足を踏《ふ》み出したとき、近くの天幕のそばに立っていた男が一行に気づいてその場に膝《ひざ》をついた。そこから波紋が広がるようにして、草原に散った人々がざわめきとともにその場に膝をついていく。
泰麒は禎衛の手をしっかり握って、前を行く女仙《にょせん》のかんざしが揺《ゆ》れるのを見すえて、無数の視線が薙《な》いでいく苦痛をやり過ごした。
「……だいじょうぶですか?」
そっと後ろから蓉可が問うてきた。
「はい。……おしゃべりをしてもいいの?」
「かまいませんよ。とにかくお気楽になさいませ」
「うん」
思ったほど堅苦しい儀式ではないらしい。それを思って、泰麒はちょっと息を吐く。
「これが全部?」
この問いには禎衛が答えた。
「いいえ。供の者が半分以上おりますから」
「……よかった」
見渡すと、鎧《よろい》を着た者が多かった。ずいぶん若い姿もあり、同時に老人の姿も見える。多くが男だが、女の姿も少なくない。
「ずいぶん女の人がいるね」
禎衛は笑う。いつものような笑顔ではなく、どこかなにかを控《ひか》えたような笑顔だったから、禎衛も禎衛なりに緊張しているのだろうと思った。
「もちろんですとも。……泰麒は王と女王と、どちらにお仕《つか》えしたいですか?」
「わからない」
門から甫渡宮《ほときゅう》までは石畳が敷かれている。その両脇に大勢の大人《おとな》が膝をついて首を垂《た》れていた。それはひどく不自然なことに思われる。
「……どうしてみんな座っているの?」
「それが礼儀だからですよ」
禎衛はすでに、身分という言葉を泰麒がうまく理解できないのを呑《の》みこんでいた。
「ぼくは挨拶《あいさつ》しないでいいのかな」
「いまはいいんです。お話をするときに気になるようでしたら、お立ちなさいと言ってさしあげてください」
「話をしてもいいの?」
「進香《しんこう》のあとでなら。きっと珍しいお話がたくさん聞けますよ」
「……大きな獣《けもの》がたくさんいる」
「妖獣《ようじゅう》です。みんなあれに乗ってきたんですよ」
「へぇ……」
トラのような獣がいて、ライオンのような獣がいて、馬や牛に似た獣がいる。
「妖獣も折伏《しゃくぶく》するの?」
「妖獣は生《い》け捕《ど》りますね。調教して馴《な》らすんですよ。──さ、足元にお気をつけて。中に入ったら祭壇に一礼してくださいまし」
周囲を見回していた目線を正面に戻すと、甫渡宮が目の前だった。
蓬廬宮のほとんどの建物とはちがい、きちんと四方に壁がある。中に一歩入って、それで追ってくる視線が途切れて、泰麒はかなりのところホッとした。
中は天井《てんじょう》の高い大きな広間がひとつきり、正面に祭壇がある。それは寺院の本堂に雰囲気《ふんいき》が似ていた。
禎衛に言われるままに一礼し、祭壇の前まですすんで香《こう》をあげ、そうして祭壇の右手、壁沿いに設けられた一段高くなった場所へ連《つ》れていかれた。和室でいえば八畳くらいの壇上の奥は壁、三方には御簾《みす》が下がっている。いまは正面の御簾が上げられていて、壇上の奥にある椅子に座ると、甫渡宮の入り口から祭壇までが見渡せた。
そこからおとなしく女仙《にょせん》たちが進香を行うのをながめるうちに、また視線が絡《から》んでくるのを感じた。見ると、宮の入り口に大勢の人間が集まっている。進香が終わって女仙のほとんどが壇上に上がってくると、御簾が下ろされて大きく息をついた。
「もうお楽になさってけっこうですよ」
禎衛は笑い混じりにいう。
「……たくさんの人に見られるのって、落ち着かないね」
「すぐにお慣れになりますよ」
「汕子を呼んじゃ、だめ?」
「御簾《みす》が下りているときなら」
禎衛に言われて、汕子、と呼ばわる。すぐ足元からするりと身を起こすように汕子が現れて、その豹《ひょう》の身体《からだ》に腕《うで》をまわしてやっと落ちついた。ねぎらうように頭を抱えてくれる腕が温かい。
「よほど緊張してらしたんですね。そんなに堅《かた》くなる必要はないんですよ」
禎衛は苦笑混じりだった。
「……頭ではわかってるんだけど。──これからどうするの?」
「昇山《しょうざん》した者が進香《しんこう》に入ってきます。かえるまでここでそれをながめていらっしゃっても結構ですが、退屈なら外においでになって昇山の者とお話しになっても結構ですよ」
禎衛がいっている間にも、宮に進香する者が入ってきた。最初のひとりが妙に堅いしぐさで祭壇の前に進み進香を行う。
「泰麒、王気は?」
禎衛に耳打ちされて、泰麒は首を横に振った。わからない、の意だったが、禎衛はちゃんと了解してくれたようだった。
「これから泰麒には、ここまでしばしばおいでいただかなければなりません」
「こうやって、王様がいるかどうか、調べるんだね」
「さようです。もしも王がおられたら、あたしたちに耳打ちしてくださいまし」
「……はい」
進香を終えた男が壇上の正面まで戻ってきた。一礼して壇の下で膝《ひざ》をついた男は、父親くらいの年代の男だった。相撲《すもう》取りのように太っていて大きい。壇下の女仙《にょせん》と言葉を交わす彼の声を聞きながら、泰麒は懸命に意識を凝《こ》らす。天啓《てんけい》が──それがどういったものかはまだわからないが──ないかどうか。
禎衛が目線で問うてきたので首を横に振った。
天啓と思われる変事はなにひとつ起こらなかった。