昇山《しょうざん》する者は主従あわせて三百余り、玉座を試すために訪れたのは主人だが、その従者にも機会は等しく与えられている。
泰麒を見つけるなり駆《か》け寄ってくる者もあったが、もの言いたげな視線を向けてくるだけで、話しかけてこない者もあった。会話せずともそこに王がいればわかるものだと女仙《にょせん》に言われたけれど、天啓《てんけい》を示すものは訪れない。
話しかけられるにせよ、話しかけられないにせよ、いずれにしても期待に満ちた視線を裏切るのは同じようにつらかった。
人の切れ間に深い溜《た》め息《いき》をつくと、蓉可《ようか》がそれを聞きとがめて顔をのぞきこんできた。
「お疲れになりましたか?」
「ううん。でも、たくさんの人をいっぺんに見たから」
「午《ひる》を過ぎましたから、甫渡宮《ほときゅう》に戻りましょうか? お休みになりたいでしょう。それとも、もう蓬廬宮《ほうろぐう》にお帰りになりますか?」
「……うん」
泰麒はうなずいてなんとなく周囲を見渡し、視線をとめて蓉可の手を引いた。
「──蓉可。翼のある犬がいる」
ほど近い天幕《てんまく》の外に、馬に交《ま》じって巨大な犬がつながれている。数人の男女がその乗騎たちの世話をしていた。
「天馬《てんば》でございますよ。そばに寄ってごらんになりますか?」
「かまわないと思う?」
「もちろんです」
言って、蓉可は泰麒の手を引き、その犬がつながれた天幕に近づいていく。
犬は大きく、白身に黒頭、短めの翼を背にたたんだ様子が美しかった。
「……これは、蓬山公《ほうざんこう》。ご健勝そうでなによりでございます」
世話をしていた男女のうち、近づいてくる泰麒たちを認めてまっさきに膝《ひざ》をついたのは大柄な女だった。
「この天馬はそなたの乗騎ですか」
「さようでございます」
「公《こう》にお見せくださいましょうか」
「よろこんで」
女は笑って天馬《てんば》のそば近くへ一行を促《うなが》す。蓉可に押されておずおずと近づいてみると、天馬は見た目の印象よりさらにおおきな生き物だった。
「……大きいんですね」
泰麒がつぶやくと、あらためて天馬のそばに膝《ひざ》をついた女が答えた。乗騎の世話をしていた数人のうち、彼女が主人らしかった。
「これでも天馬にしては小柄なほうでございます」
「どうぞ、立ってください。──触《さわ》ってもかまいませんか?」
「ありがとう存じます。──よろしければ、なでてやってくださいまし。とてもおとなしゅうございますから」
女に言われて、泰麒はちょっとためらいながら手を伸ばしてみる。つややかな毛並みは触れてみると見かけより硬い。首のあたりをなでてやると、天馬は心地よさそうに目を閉じた。
「本当におとなしいんですね。……名前はなんていうんですか?」
「これは飛燕《ひえん》と申します」
飛燕《ひえん》、と呼んでやると、目を閉じたまま手に耳の下をすりつけるようにする。
「噛《か》んだりしませんか?」
「だいじょうぶでございますよ。もともと天馬《てんば》は、妖獣《ようじゅう》にしてはたいへん気性のおとなしい獣でございますから。飛燕はとくに温和な性格ですし、噛んではいけない相手はちゃんと心得ているようです」
「えらいんですね」
泰麒はひとしきり女と天馬の話をした。どうやって手に入れたのか、どうやって飼《か》うのか。騎乗した感じはどうなのか。
女の返答は明瞭《めいりょう》だった。やわらかな声で、やわらかな言葉づかいで、それでも歯切れのよい返答は、どこか強いものを感じさせる。
実をいえば、泰麒にはまだ大人《おとな》の年齢が見ただけでは判然としない。いくつぐらいの女なのかはわからなかったが、蓉可や禎衛《ていえい》の外見よりはずいぶん年上に見えた。
もっとも、ひょっとしたらそれは彼女の持つ雰囲気《ふんいき》のせいかもしれない。女仙《にょせん》たちの持つ雰囲気とはあまりにへだたりがあるので、年齢まで離れているように感じられるのかもしれなかった。
女仙たちはおおむね、たおやかで華《はな》やいだ外見をしている。ことにいまは鮮《あざ》やかな着物を着て、美しい髪飾りをしているのでなおさらそう見えた。
反対に女は渋《しぶ》い色の男物の服、赤茶の髪は結《ゆ》いもせずに垂《た》らしただけで、装飾品はいっさい身につけていなかった。上背もあって、動作にもなよやかなところがどこにもない。きれいなひとだと思えたが、それは玉葉《ぎょくよう》や女仙たちが感じさせるそれとは、ずいぶんちがった種類のものに見えた。
「……ありがとうございました」
泰麒はなごりおしく飛燕の首から手を放した。
「いいえ。飛燕も喜んでおりましょう」
「あなたはどちらからいらしたんですか?」
「わたしは承州《じょうしゅう》からまいりました。承州師将軍|李斎《りさい》、姓名を劉紫《りゅうし》と申します」
泰麒は少し目を丸くする。
一国には九州あって、州侯がそれを統治する。州侯にはそれぞれ掌握《しょうあく》する軍があったが、これを州侯師、略して州師ともいった。軍の大きさは州の大きさによってちがい、二軍から四軍、したがって将軍もまた二人から四人しかいない。
「将軍でいらっしゃるんですか」
それでは、女仙とはずいぶん雰囲気がちがうはずだ。
「はい。およばずながら」
気持ちのいい人柄だったので、落胆させるのは少しつらい。それでもどう考えても天啓《てんけい》に相当しそうなものは泰麒を訪れなかった。
「……中日《ちゅうじつ》までご無事で」
李斎は少し自嘲《じちょう》するような笑みを浮かべたが、それだけだった。すぐに元の笑顔で一礼をする。
「ありがとう存じます。公もご健勝であられますよう」
「ありがとうございます」
他者を選別することはつらい。天啓が泰麒の好悪の情とはなんの関係もなさそうなだけに、いっそうなにやらせつなかった。
「あの……また飛燕《ひえん》に会いにきてもいいでしょうか」
李斎はこだわりなげに笑った。
「もちろんでございますとも」