前方に人だかりができていた。なにごとだろうと、女仙《にょせん》たちがささやき交わしたところに、喧嘩だ、と声がする。とっさに泰麒《たいき》は蓉可《ようか》の裾《すそ》にすがりついた。
それがどんな種類のものであれ、暴力はそうじて泰麒には恐ろしく感じられるのだ。それは血を恐れるのと同じ種類の恐怖だった。殴《なぐ》られる怖《こわ》いのではない。殴るという行為自体が恐ろしく、同時にそれを行う人間が身がすくむほど怖い。
「なんの騒ぎです」
女仙が咎《とが》めるように声をかけると、こちらに気づいた者が膝《ひざ》をついた。
「あ……あの──」
蓬山《ほうざん》の主《あるじ》は血を嫌《きら》い暴力を嫌う生き物だから、ここでの流血沙汰は絶対の法度《はっと》である。理由いかんによっては蓬山の外に放り出されることもあった。
「ええい、これだから戴国《たいこく》の者は油断がならぬ。ほんに血の気が多いのだから」
言い捨てて女仙は人垣に向かう。
国によって、国民性の違いというべきものがある。戴国の民は気性が激しいので有名だった。本来ならその気質は泰麒《たいき》の中にも流れているはずだが、なにごとにも例外というものはある。
「おやめなさい! ここをどこだと思っているのです!」
女仙《にょせん》の声に人垣が割れた。
人垣の中心にいたのは二人の男だった。
一方は長剣をかざした巌《いわお》のような巨漢、一方はそれよりは小柄な、それでも堂々たる体格の拳《こぶし》をかざした男だった。佩刀《はいとう》しているが、抜いていない。それでも一目で小柄なほうの優勢がわかる。
目を引いたのは小柄なほうだった。
黒い鎧《よろい》と白い髪の対比。肌はよく日に焼けた褐色《かっしょく》、上背が高く、体格も動作も恐ろしくしなやかで獰猛《どうもう》な獣のような印象を与えた。
人垣の中に駆《か》けこんだ女仙が止めに入る間もなく、私闘は終わりを告げた。剣をかいくぐった拳が巨漢をしとめたのだ。
巨漢は土をかいたが、起き上がることができなかった。
男は倒れた巨漢を見やる。
「蓬山公《ぼうざんこう》の御在所ゆえ、剣は抜かぬ。公にお礼申しあげるがよい」
すこしも気負ったところのない動作、気負ったところのない声だった。
冷淡に言い捨てて振りかえった男と泰麒の視線が合った。
──その瞳《ひとみ》の真紅《しんく》。あたかも血のような。
思わず蓉可の裾《すそ》を握ってさがった。泰麒は彼が恐ろしかったのだ。蓉可を引いてその場を逃げ出そうとするまえに、男のほうが近づいてきて膝《ひざ》をついた。
「いらっしゃるとは存知あげなかった」
目が和《なご》んで、少しだけ柔和な印象になる。それで泰麒はなんとかその場に踏《ふ》みとどまることができた。それでも蓉可の衣《きぬ》を握った手に力がこもる。
「無作法をいたして申しわけない。どうかお許しを」
泰麒には返答ができなかった。代わりに蓉可が男に対峙《たいじ》する。
「蓬山で争いごとはお控えなさいませ」
「申しわけございません」
泰麒の身体《からだ》にまわされた蓉可の手が、なだめるように動いた。軽く背中をなでて、やんわりと前に押しだそうとする。
「もうだいじょうぶですよ。喧嘩《けんか》は終わりましたし、誰も怪我《けが》などしていません」
含めるように言われて、泰麒はうなずいた。本人を前にして、この男自体が怖《こわ》いのだとはとうてい言えなかった。
膝《ひざ》をついた男は李斎《りさい》よりもさらに年上に見える。無造作《むぞうさ》に束ねて低い位置でくくった髪は青みをおびた白銀、そのせいで年長に見えるだけかもしれなかった。端正な風貌《ふうぼう》の目元が怜悧《れいり》で、まっすぐに向かってくる視線が射《い》るほど強い。
男は薄く苦笑した。
「すっかり怯《おび》えさせ申しあげたようだ。お詫《わ》びいたします」
「いえ……」
ようやく声が出た。
「少し、驚いただけです。……どちらからいらしたんですか?」
「鴻基《こうき》から参りました。わたしは戴国|禁軍《きんぐん》、乍《さく》将軍と」
周囲の人間から軽くどよめきが起こったので、有名な人物なのかもしれない。
禁軍は王直属の軍だった。必ず三軍で、これに首都|州侯《しゅうこう》──これは必ず麒麟《きりん》が任ぜられる──の三軍を加えて六師《ろくし》という。麒麟はその性質上、軍の指揮などできはしないから、実際には王が麒麟に代わってこれを掌握《しょうあく》する。それで、六師を王師《おうし》ともいった。
「名を綜《そう》。字を驍宗《ぎょうそう》と申します」
まっすぐに見つめてくる視線が怖い。なにかを言わなくてはならないと、奇妙な強迫観念に捕《と》らわれて、言わずもがなのことを口にした。
「……将軍でいらっしゃるんですね」
同じ将軍でも和《なご》やかな印象を与えるさきほどの李斎とはちがって、この男はどこまでも厳しい印象を与える。
それが驍宗と李斎の個性の差によるものか、それとも禁軍将軍と州侯師将軍という立場のちがいによるものなのかは泰麒には判然としなかった。
「はい。剣技よりほかにとりえもありませんゆえ」
口ではそういいながら、彼が自分のあらゆるものに自信を抱いているのがわかる。身がすくむほどの覇気《はき》。
一刻も早くこの場から逃げ出してしまいたかった。
これまでと同じように自分自身の様子をさぐり、どんな異変もないのを確認して、泰麒はひそかに蓉可の衣《きぬ》を引く。
「……中日《ちゅうじつ》までご無事で」
やっとそれだけを言って、視線を断ち切り、会釈《えしゃく》をした。それで、彼がそのときどんな表情をしたのかはわからない。
軽いざわめきが周囲からまた起こった。
「乍ではなかったか」
誰かのその声で、彼が泰王《たいおう》に目《もく》されていたのだとわかった。