甫渡宮《ほときゅう》に着くなり、そわそわときかれて、蓉可はほのかに笑った。
「どうぞ。また、李斎《りさい》殿のところですか?」
「いけない……?」
「いいえ。李斎殿はよいお人柄のよう。仮にも将軍でいらっしゃるのだから、腕《うで》のほうも頼りになりますでしょう」
そう許可をもらい、交代で壇上に詰める女仙《にょせん》たちに囲まれて泰麒《たいき》は宮を出た。
日が過ぎるにしたがって、女仙たちにも昇山《しょうざん》の者のなかに顔見知りができてくる。ひとりふたりと立ちどまって話しこんでしまい、つき従う女仙の数が減ってゆく。蓉可さえもが李斎の天幕《てんまく》が見えるあたりで足を止めて、どこからの従者と立ち話を始めてしまったので、泰麒は残る距離を小走りに急いだ。
挨拶《あいさつ》に捕まることは減ったが、なにやかやと話しかけてくる者は絶《た》えない。彼らに捕まらずに済む一番の方法がとにかく急いでいくことだと学んでいた。
「李斎殿」
声をかけるより先に、李斎が天幕から出てきた。
「おいでなさいませ」
「来るのがわかった?」
「公《こう》がいらっしゃると、飛燕《ひえん》が嬉《うれ》しそうに鳴きますから」
「本当に?」
「ええ。存外飛燕は、公が主《あるじ》だとおもっているのかもしれません」
「まさか」
「さあ、どうでしょう。妖獣《ようじゅう》は喋《しゃべ》りませんから、直接聞いたわけではございませんが」
笑いながら李斎は飛燕の首を叩《たた》く。
「どうだ? 飛燕《ひえん》?」
天馬《てんば》はぷいとそっぽを向いて、泰麒の胸に頭をすりつけた。李斎が苦笑する。
「ほら。わたしの申しあげたとおりでしょう?」
飛燕の毛並みを梳《す》かせてもらって、泰麒は李斎と午《ひる》まで散歩に出る。
李斎は泰麒の質問にていねいに答えてくれて、珍しいものをいちいち示しては面倒《めんどう》がらずに解説してくれた。
知り合いにも紹介された。李斎が昇山《しょうざん》してから親しくなった知人らしいが、その誰もが気持ちのいい人柄で、李斎とあたりを歩くのは無条件に楽しい。
「誰もかれも戴国《たいこく》の人なんですね。戴国以外の人はいないんでしょうか」
奇岩の根元に湧《わ》いた泉を取り囲むように広がった広場を歩きながら、泰麒が何気《なにげ》なく問うと、李斎は軽くふきだした。
「──もちろんです。戴国の王は、戴国の者と決まっていますから」
「え、そうなんですか?」
「ご存知なかったのですか?」
李斎は少々|呆《あき》れ顔だった。
「ぼくはつい最近まで蓬莱《ほうらい》で育ったので、あまりものを知らないんです」
ああ、と李斎はうなずく。
「そうでしたね。失礼を申しあげた。──王はその国|出自《しゅつじ》の者、という決まりがあるんですよ」
「じゃあ、ここにいる人はみんな戴国から来たの?」
「そうとは限りませんけれど。生まれが戴国ならそれでいいそうですから」
「へぇ……」
李斎に手を引かれて歩きながら、泰麒はふと足を止めた。
「李斎殿、とてもきれいな獣《けもの》がいる」
泰麒が見やった方向を降りかえって、李斎はうなずいた。
「ああ、|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》ですね。──あれは見事だ」
それは虎《とら》によく似た生き物だった。すばらしく長い尾の先まで、不思議《ふしぎ》な五色に輝いて見える。天馬がどこか柔らかな印象を与える生き物であるのに比べ、それはあくまで猛々《たけだけ》しく強い。
「※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞は最高の騎獣ですよ。一国を一日で駆《か》け抜ける」
「すごい」
女仙《にょせん》から、一国は馬でひと月の広さだと聞いていた。
「ええ。しかも主人によく馴《な》れてとても利口《りこう》です。勇猛で、戦場に連れるのにはこれ以上の獣《けもの》はいない」
李斎は|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》に近づいて見惚《みほ》れるようにしている。
「──わたしも※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞に会えるといいのですけど」
「※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞がほしい? 飛燕《ひえん》がいるのに?」
「欲しいですね。飛燕は馴れて可愛《かわい》いけれど、性格が柔らかいぶん戦場に連れるのは不憫《ふびん》です。わたしは武将だから、どうしてもそれが優先になる」
「……そうですね」
「蓬山《ほうざん》の帰りにうまく出会えるといいのですが」
「会えたら捕《と》らえて連れて帰る?」
李斎は笑ってみせた。
「そのつもりです。公《こう》にお会いするのも楽しみでしたが、それも楽しみだったのですよ、実は」
「へぇ……」
「私財をありったけ投げ出せば購《あがな》うこともできますが、買った妖獣《ようじゅう》は主を侮《あなど》る。──いえ、そうでなくても、やはり騎獣ぐらいは自分の器量で捕らえたいもの」
「そうですね」
李斎は笑《え》んでひとつうなずいてから、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞のつながれた天幕《てんまく》に声をかけた。
「失礼をつかまつる。表の※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞の主《あるじ》はおいでか」
「──計都《けいと》のことなら、わたしの乗騎だが」
突然かかった声は背後から聞こえた。李斎は驚きを顕《あらわ》にして振りかえる。どこか身構えるようなしぐさだった。
「……驍宗殿」
あの男だった。今日は鎧《よろい》をつけていない。それでも佩刀《はいとう》するのは忘れていなかった。忘れようのない、氷の白髪と、紅玉の目。
李斎は泰麒と驍宗を一度だけ見くらべてから背筋を伸ばした。
「初におめもじつかまつります。わたしは──」
「承州《じょうしゅう》師の李斎殿であろう」
驍宗は軽く笑う。対する李斎は軽く目を見開いた。
「なぜ」
「将軍はご高名であられるのをご存じないらしい」
「やっぱり」
思わず泰麒が口をはさんで、李斎も驍宗も泰麒を振りかえった。
「あ……、すみません」
驍宗は面白《おもしろ》そうに泰麒をうながした。
「やはり?」
「いえ……。李斎殿なら、さぞかし立派《りっぱ》な将軍なんだろうな、って。なんとなく、そう思っていたので……」
李斎は少し顔を赤くし驍宗を見る。
「公はわたしを買いかぶっていらっしゃるのです」
「なんの」
驍宗は笑う。
「公はお目が高い。そのとおりです。李斎殿は承州師にその人ありとうたわれるお方」
「お信じにならないでください、公」
李斎がいつになく照れているのがおかしい。
驍宗もその様子を見て、軽く笑う。実際そばにいて笑顔を見てしまえば、さほど恐ろしい人物とも思えなかった。