蓉可《ようか》が言ったのは、夏至《げし》をひと月半も過ぎた頃だった。
夜、月は高く、かそけく虫の音がする。
「じゃあもう、明日は甫渡宮《ほときゅう》に行かなくていいの?」
蓉可は牀榻《しょうとう》の中を調《ととの》えながらうなずいた。
汕子《さんし》は無言で泰麒《たいき》に着がえをさせている。
「ええ。離宮の大扉は閉めさせましょう。それでもう誰にも望みのないことがわかりますからね」
「あとはどうすれば?」
「どうなりと。外へ遊びに行きたいのならば、どうぞ」
「いいの?」
「かまいませんよ。もう人目がございますからね。どうせ驍宗《ぎょうそう》殿と李斎《りさい》殿でしょう? あのおふた方がついておられれば心配ございません。汕子もついておりますし」
なんとなくあれ以来、驍宗とも必ず会っている。
李斎をたずねて飛燕《ひえん》と遊んでから驍宗をたずねる。それがいつの間《ま》にか習慣になっていた。
あいからわず時にヒヤリとすることがあるが、その感覚にもずいぶん慣れた。慣れてしまうと蓬山《ほうざん》に男は珍しいから、会わないと物足りないような気がする。
「ええと……」
泰麒は上目づかいに蓉可を見る。
「明日は、李斎殿と驍宗殿は黄海《こうかい》に|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を探しに行くんだって」
蓉可は眉《まゆ》を上げた。
「──それで?」
「……ぼくも行っては……駄目《だめ》だよね、やっぱり」
蓉可は部屋の隅に控《ひかえ》えた禎衛《ていえい》と目を見交わし、それから息をついた。
「よろしゅうございます。──泰麒のおねだりはめったにあることでなし。ただしお怪我《けが》などなさって、あたくしどもの肝《きも》を冷やさせないでくださいましよ」
泰麒は破顔する。
「はいっ」
むしろ深夜に近いほどの早朝、泰麒は甫渡宮から李斎の天幕《てんまく》までを一気に駆《か》ける。
あたりはまだ暗く、人の姿もほとんど見られなかったが、方々にある篝火《かがりび》のせいで広場は明るい。
「李斎殿!」
「──公《こう》」
すでにそこに鎧《よろい》をつけて計都《けいと》を引いた驍宗の姿も見えた。
飛燕《ひえん》に鞍《くら》をのせながら振りかえった李斎も初めて見る鎧姿、彼女は泰麒の後ろに女仙《にょせん》を見つけて軽く頭を下げる。
「行ってもいいんだそうです」
李斎は笑った。
「それはようございました」
「飛燕にのせてもらえますか?」
「もちろんですとも」
追いついてきた禎衛が端然と一礼をした。
「かけがえのない御身《おんみ》、くれぐれもよろしくお願いいたしますよ。李斎殿、驍宗殿」
李斎も驍宗も重々しく一礼を返す。
「おふたりを信じてお出しするのですから、万が一にも公に危険のございませんよう。お手数とは思いますが必ず午《ひる》にはお帰しくださいませ」
「かしこまりました」
禎衛はうなずき、鞍の用意をされているのが天馬《てんば》と※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞だけなのを見てとる。
「随従《ずいじゅう》はお連《つ》れにならないのですか」
「随従の馬では、午《ひる》までに行って帰って参れません」
李斎が困ったように言うと、禎衛もまた眉《まゆ》をひそめた。
黄海は本当に危険な場所なのだ。五山《ござん》は守護されているものの、黄海には無数の妖魔《ようま》が住む。妖獣も捕《と》らえて調教してしまえば主人のいうことをよくきいておとなしいが、野生のそれは、本来、人を襲う危険な生き物なのである。
しかも黄海には、妖魔以外にも無数の危険がある。流砂があり、瘴気《しょうき》をくゆらせる沼があり、落石の多い山がある。
「公には傷ひとつなくお帰しくださると、約束くださいましょうか」
李斎は深くうなずいた。
「お怪我《けが》をさせるようなことはけっして」
「我らがお供できればよいが、女仙は玄君《げんくん》の許可なく五山を下ることができぬ。危険な場所は困ります。狩りをなさるにも、公の安全を第一に考えてくださいますよう。血の汚れも困ります。──よろしいか」
「ええ……はい」
李斎は困惑した表情を浮かべる。禎衛はそれにかまわず、言葉を続けた。
「もしもやむをえず妖魔を斬《き》ることがあれば、どちらご一方が公を連れてお逃げください。……たとえそれが一方を見捨てることになりましょうとも」
「……禎衛」
あまりのいいように、泰麒が軽く禎衛の裾《すそ》を引っぱったときだった。
「我々は物見遊山《ものみゆさん》に参るわけではない」
驍宗だった。顔にはあの苛烈《かれつ》なものが浮かんでいる。
「妖獣を狩るとなれば、黄海の縁《ふち》ばかりを往《ゆ》くわけにはまいらぬ。多少の危険はないとは言わぬ。お守り申しあげる自信があればこそ、お誘いしたまで。そこまで重々の念のおしよう、いかな蓬山の女仙《にょせん》方とはいえ無礼に過ぎよう」
禎衛は驍宗を見すえる。
「……たいした自信じゃが、奢《おご》りでないと申せるかえ」
それを見返す驍宗の目のほうがいっそう烈《はげ》しかった。
「たかが女仙にご心配いただくまでもない。公は我が戴国《たいこく》の麒麟《きりん》。公のお身の安全を願うに、戴国の民以上のものがあってとお思いか。それこそ女仙方の奢りと思うが、いかが」
にらみあうことわずかののち、禎衛のほうが視線を逸《そ》らした。
「……確かに、おまかせいたしましたよ」
「しかと承りました」
踵《きびす》を禎衛を見やって、驍宗は|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》の手綱《たづな》をとる。
「──日が昇ってしまう。参ろう、李斎殿」