岩を跳《と》び伝い、平地を駆《か》け、倒木をまたぎ越してもほとんど騎者に衝撃を感じさせない滑らかさは、とうてい動物の背にまたがっているとは思えない。泰麒《たいき》はそれにひどく驚いた。
夜目もきくようで、岩や樹木が月光を遮《さえぎ》る場所さえ、速度を落とすことなく駆けていく。
「……いかがですか?」
李斎《りさい》にきかれて、背後から泰麒を抱えるようにして手綱《たづな》を握っている李斎を振りかえった。
「まるで、麒麟《きりん》みたいです」
李斎は目を丸くした。
「麒麟に騎乗したことがおありですか」
「ええ。……変ですか?」
李斎は苦笑する。
「おそれおおい経験をなさいましたね。──飛燕《ひえん》も麒麟と比べられては、さぞ恥ずかしゅうございましょう」
「そうなんですか」
「そうですとも。公《こう》はご自身が麒麟だから、麒麟を軽く考えておられるのでしょう。わたしなどは、麒麟にまたがるなど、考えただけで身がすくみます」
「へぇ……」
そんなものなのか、と泰麒は思う。確かに、景麒《けいき》という人物の背中にまたがっているのだと思えば、とまどう気分もあったが、おそれおおいことだとは思わなかった。
「こうして同じ鞍《くら》にお乗せしているだけで、おそれおおい気がいたしますのに」
微笑《わら》う李斎の顔を見上げて、そんなものなのだろうか、と首をかしげる。
意見を求めてすぐそばを走る計都《けいと》のほうを見ると、李斎と泰麒の会話など耳に入っている様子《ようす》もなく峻厳《しゅんげん》な表情で前を見ている驍宗《ぎょうそう》の横顔が目に入った。
まだ、あの怖《こわ》いものが驍宗の周囲にただよっている。彼は禎衛《ていえい》の言葉によほど怒ってしまったのだろう。
天馬《てんば》に揺《ゆ》られて高揚《こうよう》していた気分がすっとしぼんだ。
それは自分のせいだという思いがあったからだった。
飛燕《ひえん》と計都《けいと》は黄海《こうかい》深く入りこみ、岩山を軽々と駆《か》けぬけて五山《ござん》の北、恒《こう》山の麓《ふもと》にまわりこんだ。
殺伐《さつばつ》とした岩の隆起が連《つら》なる丘で、先をゆく驍宗が計都を止めて鞍《くら》を降りた。まだ空には月がある。
「──驍宗殿、ここですか?」
飛燕を止めた李斎の問いに、驍宗は無言でうなずいた。
泰麒は李斎に抱き降ろされながら、いっかな覇気《はき》の引かない驍宗の横顔を見る。
「あの……驍宗殿」
「どうされました」
驍宗の声音《こわね》は突き放すような響きをしている。鞍に結んだ荷をほどきながら、泰麒を降りかえりもしなかった。
その背中に向けて泰麒は頭を下げる。
「さきほどは……女仙《にょせん》が失礼をしました」
驍宗は手を止めて、息を吐《は》いた。ふと彼をとりまいた覇気が衰《おとろ》えた。
「……公がお詫《わ》びになることではない」
「いえ、あの……驍宗殿にも、李斎殿にも本当にごめんなさい」
李斎は岩陰のほどよい場所に焚《た》き火《び》の用意をしながら笑う。
「気になさることはありません。女仙が心配するのも当然のことなんですから」
「いえ」
行ってから泰麒は二人を見比べた。
「……ぼくは病気の麒麟《きりん》なんです」
ふたつの視線が集まって、泰麒は赤くなる。
「それはもののたとえなんですけれど……」
泰麒はけんめいに言葉を探す。
「禎衛は、李斎殿や驍宗殿をあなどったわけではないんです。そうじゃなくて、ぼくがあんまり頼りないんで、心配なんだと思うんです」
李斎は柔らかく笑った。
「公はかけがえなのない方なのですから。そのようにご自分を軽くお考えになってはいけませんよ」
泰麒は首を振った。
「いいえ。──女仙《にょせん》が心配するのは、ぼくには麒麟《きりん》らしいことがなにもできないからなんです。たぶん、そうなんだと思います。……ぼくは、使令《しれい》を持っていないんです」
驍宗も李斎も目を見開いた。一瞬、互いの目を見交わす。
麒麟は血を忌《い》むので、自ら武器を持ってほかと戦うことができない。それは相手が妖魔《ようま》であれ、獣《けもの》であれひとしく変わらなかった。
そんな麒麟を本人に代わって守護するのが使令で、麒麟は無数の使令を持っているものだというのが常識だった。使令がいないということは、身を守るすべがないことを意味する。
「それだけじゃなくて、ぼくは転変《てんぺん》もできないんです」
これは驍宗と李斎をさらに驚かせた。
「本当なら使令をいっぱい持っていて、使令たちが守ってくれるはずなんですけど、ぼくにはそれができない。逃げるときだって麒麟になれれば逃げられるはずなんですけど、それができないから」
いたらない自分を告白するのは、少し恥ずかしい。泰麒は無意識のうちに身を縮《ちぢ》めた。
「それで女仙たちは、とてもとても心配してしまうんです。なんとか治《なお》してくれようとして、慶国《けいこく》の台輔《たいほ》をわざわざ呼んでくれたぐらいなんですけど」
いたらない自分がどれほど周囲の人間の心を痛めさせているか。にもかかわらず、どれほど深い愛情を注いでもらっているか。──それを考えるとせつない。
「台輔も本当にいっしょうけんめい教えてくださったのに、ぜんぜん駄目《だめ》だったんです。それで──」
驍宗が大きな手で軽く泰麒の頭を叩《たた》いた。
見上げると、柔らかな視線を向けられていた。ときにおじけづくほど怖《こわ》い驍宗は、またときに呆然《ぼうぜん》とするほど優《やさ》しい顔をする。
「公の使令は、はなからあてにしておらぬ。ご心配めさるな」
「あの……女怪《にょかい》ならいるんですけど」
驍宗は微笑《わら》った。
「それは心強い」
大きな、景麒のそれよりいっそう大きな感触の手が頭をなでた。
「……はい」