その暗い穴は下へ下っている。かなりの段差がありそうだった。
「驍宗殿!」
「汕子とやら、公《こう》を連《つ》れて逃げよ。計都《けいと》に乗って蓬山《ほうざん》に帰れ」
汕子はうなずいたが、泰麒はすでに驍宗のほうへ駆けだしていた。
「泰麒《たいき》、いけません!」
走る子供を、汕子は跳躍して抱きとめる。
「だって、李斎殿が!」
穴を示した泰麒を驍宗は目線で止めた。
「李斎のことは、わたしに任されよ。公は外へ」
「できません!」
驍宗は泰麒の声には返答せず、穴の底へ飛び下りた。泰麒は汕子の腕《うで》をかいくぐる。
「泰麒!」
泰麒は転《ころ》がる勢いでその穴に駆けつける。伸ばされた汕子の手を払って、委細かまわず穴の中に飛びこんだ。
──断固として、驍宗だけには行かせられない。
かなりの落差があったが、先回りした汕子が麒麟を受け止めた。
「──泰麒」
「だめ! 逃げない!!」
汕子は思わず泰麒の身体《からだ》にかけようとした手を引く。なぜかその声に逆らえなかった。
──どうしたこと。
汕子は一瞬、状況を忘れて自分の手を見た。
泰麒は汕子の主人だが、いまはなによりも泰麒自身の安全が優先する。泰麒を連れてこの危険な──危険の正体は不明だが──場所から逃げなければ。多少泰麒のいいつけを無視しても、多少乱暴な手段をとっても。
そう思うのに、泰麒をおしとどめた腕《うで》は、かるがるとかいくぐられてしまった。いまも、思わず手を引いてしまった。
──なぜ。
泰麒には、そんな汕子にかまう余裕はなかった。
穴の底はまるで鍾乳洞《しょうにゅうどう》のような広い空洞になっていた。明かりは驍宗の持ちこんだ松明《たいまつ》だけ、床に放り出されたその光では穴の奥行きは計《はか》り知れない。
すぐ前に抜刀した驍宗の背中が見えた。そしてその足元、いくらもはなれていないところに倒れた李斎。
さらにそれから、李斎に覆《おおい》い被《かぶ》さるようにした、巨大な闇《やみ》。
それは闇の塊《かたまり》のように見えた。鎌首《かまくび》を持ち上げるようにして掲《かか》げられた闇の一部が、まっすぐに李斎を狙《ねら》っていた。
「──饕餮《とうてつ》!!」
それは汕子の悲鳴だった。
──なんということ。
汕子はまじまじと妖魔《ようま》を凝視《ぎょうし》する。それを単なる妖魔と呼んでいいものか。非常識なほどの力と、ほとんどその姿を見られぬゆえに、すでに伝説の一部だとさえ信じられている妖《あやかし》。汕子には守りきれない。──この世の誰だろうと、饕餮に対峙《たいじ》して、なにかを守りおおせるとは思えない。
李斎が顔だけをあげた。
「──公、逃げて!!」
「できません!」
叫んだ泰麒を驍宗が突く。
「公は戴国《たいこく》に必要な方。ここで死んではならない!」
「ぼくだけ逃げるなんて、できません!」
悲鳴があがった。
振り下ろされた鎌首が李斎を打ちすえて、さらにそのまま驍宗を襲う。
横に飛んで倒れた驍宗の頭上を掻《か》いて、さらに大きく振りあげられた。
──止めなくては。あの恐ろしい凶器を止めなくては。
(どうやって?)
考えるより先に身体《からだ》が動いた。
──剣印抜刀。
「臨兵闘者皆陳烈前行《りんびょうとうしゃかいぢんれつぜんぎょう》──!!」
(止めるだけなら)
影がぴたりと動きを止めた。
(それから……どうするんだったか)
叩歯《こうし》。──これは震えでままならない。
闇《やみ》の一部が振りかえった。低い位置に松明《たいまつ》の火を照り返す二つの目がある。
視線が合った。──合ってしまった。
「……逃げてください」
その双眸《そうぼう》をにらみ返したまま。いったいどれだけ持ちこたえられるか。
「汕子、李斎殿を」
「──泰麒」
「李斎を連《つ》れていって!」
──まただ、と汕子は歯噛《はが》みをする。
泰麒の言葉に逆らうことができない。
汕子は倒れた李斎に駆《か》け寄った。
血に濡れた身体を抱えあげて駆け戻り、泰麒に一瞥《いちべつ》をくれて穴の外に飛び出していった。
「……驍宗殿も。いまのうちに、逃げてください」
倒れた驍宗は視野の中にいない。怪我《けが》はないのか、確かめる余裕さえなかった。
淀んだ血の塊《かたま》りのような、ふたつの目を見返す。
「お願いです……!」
低い声で返答があった。
「できぬ」
もう一度懇願するゆとりが、泰麒にはなかった。
視線が圧力を持つものであることを、初めて知った。
押し寄せる力と、押し戻す力と。
ふたつの力が充満して空洞の中の時間が凍結した。