(……汗)
額《ひたい》を伝い落ちていくもの。
(ほかに……方法がない)
驍宗の気配を感じる。身動きひとつなく、それでも自分に注がれている視線。
(捕《と》らえるしか、ない)
驍宗は動けない。泰麒もまた、動くことはできない。
(下れ……)
初めて念じた。
(使令に下れ……)
ふいに闇《やみ》が身動きをした。──その気配を感じた。
押し寄せてくる力がゆるんだ。
生まれる、わずかな余裕。
(使令に、下れ)
さらに相手の力が弱まった。
瞬《まばた》きをする余裕。同時に汗で濁《にご》った視野が澄《す》む。
凶器を振り上げたまま硬直した相手の姿が見えた。
強い力を放つ双眸《そうぼう》はそのまま、闇は形を変え始めた。
それは震え、萎縮《いしゅく》し、巨大な空洞を満たすほど巨大な鬼に転じた。
恐怖は感じなかった。さらに余裕が生まれた。金属で固めたように張り詰めた自分の四肢《しし》をようやく意識した。
「下れ……」
闇《やみ》はさらに凝縮《ぎょうしゅく》するようにして、あまりに大きな牛の姿へ。
さらに、虎《とら》へ。
さらに、大鷲《おおわし》へ。
さらに、大蛇《だいじゃ》へ。
千変万化《せんぺんばんか》。──その尋常《じんじょう》でない力の証《あかし》。
やがて目の前に端座した小型の犬が姿を現した。
「……使令《しれい》に下れ……」
大|天井《てんじょう》を指した手で天を受ける。
ふと、視線を押し戻してくる力が失せた。抵抗を失ってなにかがまっすぐに駆《か》けていく。天を受けた掌《てのひら》から巨大な力が流れ込んできて束縛《そくばく》を引きちぎって駆け抜けていく。
「──鬼魅《きみ》は降伏《こうぶく》すべし、陰陽《おんみょう》は和合《わごう》すべし」
掌から音の洪水が脳裏に押し寄せてきた。
ゴウ。郷、剛、噛、号、業、豪、強。
音が渦巻いて脳裏に形を描く。
人。あそぶ。出る。風に。旗、なびく。鞭《むち》、打ち。叩《たた》く、水。──あふれて。
「急急如律令《きゅうきゅうにょりつりょう》──!!」
ただひとつの直感。
「下れ! ──傲濫《ごうらん》!!」
犬が立ち上がった。
半《なか》ば朦朧《もうろう》としながら芝犬のようだ、と思う。すると闇は、歩くにつれてさらに縮まり、茶色の毛並みを現した。
子犬なら、もっといいのに。足の先だけが白い犬。
──思うと本当にそのように変じた。
泰麒の足元にそれがやってきて再び端座したとき、それは故国で見た芝犬に寸分|違《たが》わなかった。
「……傲濫」
身を屈《かが》めると、子犬は泰麒を見上げて尾を振る。手を差し出せば、温かな舌で指先をなめた。
抱きあげて抱きしめる。すとんと足腰が萎《な》えて、泰麒はその場に座りこんだ。