肩に手を置かれて、我に返ると驍宗《ぎょうそう》だった。無意識のうちにいつもどおりの道を歩いていたらしい。
「ああ……驍宗殿」
──そして、ぎょうそうもまた、それだけしかいられない。
それはひどく動揺することがらだった。李斎《りさい》も──驍宗も山を下ってしまう。
ぼうっとしていた自分が気恥ずかしく、泰麒《たいき》は無理にも微笑《わら》って、それからふと眉《まゆ》をひそめた。驍宗が黒い鎧《よろい》を身につけているのが目に入ったからだ。それは、蓬山《ほうざん》で最初に会ったとき、そうして|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を狩りに出かけたとき、それ以外には身につけられなかったものだ。
「お身体《からだ》はもうよろしいのか?」
「……はい」
「どうなされた。難しいお顔をしておられる」
泰麒は一瞬、くちごもり、そして息を吐いた。
「秋分までもうひと月ないな、と思って……」
ああ、と驍宗はうなずく。
「下山の時節になりました。腕《うで》に覚えのない連中は数を頼みに下ろうと、下山日を決めようとしているらしいが」
「……そうですか」
言って、泰麒はあらためて驍宗の姿を見た。
「どうなさったんですか? 鎧をおつけになって」
「ああ、これは──」
言いさして、驍宗は泰麒の前に膝《ひざ》をつく。
「ちょうどお会いできてよかった。わたしはこれから下山いたします」
「──え……?」
泰麒は呆然《ぼうぜん》と驍宗を見返した。血の気が引くほど、その言葉は衝撃的だった。
「李斎殿に挨拶《あいさつ》しようと思っていたところ」
「……これから……?」
驍宗はこともなげに笑う。
「はい。道中、|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を探すつもりゆえ。同行したいと申すものも幾人かおりますし。……ひょっとしたら、このままご挨拶もままならないかと思うておりましたが。お会いできてよかった」
見まわしてみると、すでに驍宗の天幕《てんまく》はなく、乗騎をつないだ杭《くい》も抜かれて地は平らに均《なら》されてしまっていた。
「こんな時間から、ですか……?」
「今度は馬が一緒《いっしょ》だから、いまから下らなくては夜までに黄海《こうかい》に着けません」
「でも、夜の黄海は危険なのでは」
驍宗は立ち上がりながら笑う。
「夜でなければ、※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞も寝ております。狩をするつもりなら夜に旅をしなければ」
そんな危険な、と思い、すぐに驍宗は※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞を狩ることに慣れているのだと思い出した。彼は何度もそのようにして黄海に入ったのだ。だから計都《けいと》を捕らえることができた。
「……諦《あきら》めてないんですね」
「諦めません」
「それでは、また安闔日《あんこうじつ》のたびにいらっしゃる……?」
「帰りに捕《と》らえることができなければ」
泰麒はそれを言おうか迷い、けっきょく口にしてしまった。
「──じゃあ、蓬山にお寄りになることはできるでしょうか」
驍宗はちょっと泰麒を見つめた。
「それは叶《かな》いません。蓬山への昇山《しょうざん》は一度しか許されない」
言ってたしなめるように笑う。
「だいいち、蓬山によっていたのでは、安闔日のうちに往復することができない」
考えるまでもなく当然の返答だった。疾風《はやて》のような計都の足をもってしても、黄海の深部まで往復するのは簡単なことではないだろう。午《ひる》に門が開くやいなや駆《か》け込んで、夜中狩をし、駆け戻って閉門にぎりぎりというところにちがいない。
「……でも、驍宗殿は王師の将軍なのですから、またお会いできますね」
泰麒は驍宗を見上げ、かろうじて笑んだが、驍宗は苦笑を返してきた。
「残念ながら」
「──え?」
「王師には戻らぬつもりです。仙籍《せんせき》を返上し、戴《たい》を出る所存」
泰麒は無意識のうちに両手を握った。
「……なぜ……ですか?」
「わたしは恥をかくことに慣れていない」
泰麒は目を見開き、そしてうつむく。
「別段、公《こう》を責めているわけではない。王の器でなかったのだから致し方ない」
「でも」
「ご案じになりますな。わたしのような者でも、あれば役に立つといってくれる奇特な国もございましょう。しょせんは武人ゆえ、いまさら商《あきな》いには向こうはずもなし」
泰麒は驍宗を見上げる。
「……では、もうお会いすることもないのですね」
「おそらくは」
驍宗は笑みを浮かべたままだった。
──彼は少しも泰麒と別れることなど気に留めていないのだと、思った。泰麒がいまだに寝込んでいれば、挨拶《あいさつ》もなく下山してしまうつもりだったのだ。
「いくら狩をするにしても、中日《ちゅうじつ》にはまだずいぶん……日があるのに」
かろうじて言うと、驍宗は苦笑する。
「無様なことはいたしませぬ。わたしは選ばれなかったのだから、ぐずぐずと蓬山に留まって、未練な奴よと笑いものになりたくはない」
言ってから、大きな手で軽く泰麒の頭を叩《たた》いた。
「そのような顔をなさる。──公が気になさることはない。なに、わたしのような思い上がった者にはよい薬だ。これで少しは謙虚《けんきょ》になろう」
驍宗が笑ったので、笑い返そうとしたが、できなかった。
驍宗殿、と声をかけてくる男があった。驍宗はそれに手をあげて応《こた》え、泰麒に向かって一礼をする。
「李斎殿に挨拶してまいります」
「はい……」
李斎の天幕《てんまく》を訪ねた驍宗は、すぐに戻ってきた。泰麒はその間、石をのんだようにその場を一歩も動けないでいた。
「ご自愛なされよ。御代《みよ》つつがなけれと祈念申しあげる」
驍宗は計都《けいと》のかたわらに立って言う。
──別れの言葉だ。泰麒がうなずけば、驍宗はこのまま手綱《たづな》をとり、騎乗してこの場を去っていく。そうして二度と会うこともない。
それは想像するだけで、耐えがたいほど苦しい。しかし引き止める方法が、泰麒にはない。
「では」
驍宗は一礼して踵《きびす》を返した。泰麒はその背中を見据《みす》える。
振りかえってくれないだろうか。
念じたが、驍宗がけっしてそれをしないだろうと、なんとなくわかっていた。
李斎ならば、慕《した》ってくる子供を無下《むげ》にもできず、きっと一日延ばしに、結果として安闔日《あんこうじつ》ぎりぎりまで蓬山に留まってくれるだろう。
だが、驍宗はけっしてそんなことはしない。
驍宗は計都に騎乗した。周囲のものも泰麒に礼をとって離れていく。
周囲の乗騎に合わせて、計都はゆっくりとした足取りで去っていった。
驍宗は見送るものを一顧《いっこ》だにしなかった。