薄い帳《とばり》を透《す》かして、牀榻《しょうとう》の中にも月の光は入ってくる。
驍宗《ぎょうそう》ら一行は、すでに蓬山《ほうざん》の麓《ふもと》まで降りたろう。
野営は危険ではないのだろうか。それとも、夜中|※[#「馬+芻」、unicode9a36]虞《すうぐ》を追って、夜明けになってから野営をするのだろうか。
「……眠れませんか」
汕子《さんし》に問われて、泰麒《たいき》は無意識のうちに汕子の毛並みをなでていた手を止めた。
「李斎《りさい》殿は、もう少しおられます」
「……うん」
それは少しも泰麒をなぐさめはしなかった。
寝床の中で転々として、やがて我慢がならずに起きあがった。
「……散歩に行っちゃ、だめかな」
「夜はだめです。夜の黄海《こうかい》は」
見すかされて、泰麒はうつむく。
「じゃあ、旅も危険だろうね」
「おそらく」
また饕餮《とうてつ》のような妖魔《ようま》が出たら。たくさんの人が黄海の道中で命を落とすのだと聞いた。ましてや驍宗たちは人数が少ない。
「傲濫《ごうらん》」
なにか、という声は牀榻《しょうとう》の下から響いた。
傲濫の声は太く低い。最初でこそ小さな犬の姿でいた傲濫だが、近頃では特に泰麒が望まないかぎり大きな赤い犬の姿をとることが多かった。
「驍宗殿を令巽門《れいせんもん》まで送ってくれない? ご無事に着けるよう」
「できません」
返答はあっさりと返ってきた。
「ぼくの頼みでも……?」
「いまはなにより泰麒のご無事が優先する。驍宗が王だというのならいざしらず」
……まただ、と泰麒は唇を噛《か》んだ。
驍宗を引き止める方法も、けっして振り返らぬ彼を振り返らせる方法も、無事に四門まで旅をさせる方法も、なにもかもたったひとつしかない。
驍宗が王になればいいのだ。──王であればよかったのに。
どうして天啓《てんけい》がなかったのだろう。あればよかったのに。
(……それは)
泣きたい気分になった瞬間、するりとそれは心の中に忍びこんできた。
(……それは、麒麟《きりん》にしか……わからない)
泰麒は目を見開き、あわてて堅く目を閉じた。
鼓動《こどう》が跳《は》ね上がった。
(どうしてだろう)
そんなことを考えてしまうほど、驍宗と離れることを苦しんでいる自分に驚く。
李斎が好きだった。彼女が王ならいいのにと思った。なのに、李斎だって下山するのだという事実はさほどに泰麒を苦しめない。
悄然《しょうぜん》として起きあがった。なにかにひどく追いつめられていて、じっと横になっていることが苦痛でならなかった。
「……泰麒」
「表に出るだけ」
夜着のまま、ぼんやりと宮の石段に腰を下ろした。
蓬山の麓《ふもと》まで、道はひとつしかないが、黄海に出れば道は無数だと言っていい。ましてや乗騎を狩りながら旅するのだから驍宗たちはあえて道を離れるだろう。一行が黄海に入ってしまえば、もう見つけることさえ困難かもしれない。
彼は危険な黄海を渡り、四門にたどり着く。安闔日《あんこうじつ》を待って金剛山《こんごうさん》の外に出る。
そうすればもう追っていく方法もない。
戴国《たいこく》に帰った彼は王師を辞職して戴を離れる。どこに行くのか、消息を訪ねる方法が泰麒にあるだろうか。
……たとえあったところで。
泰麒は驍宗を選ばなかった。驍宗は戴国を離れる。そうなれば驍宗にとって泰麒は無価値な十《とお》の子供でしかない。己《おのれ》の運命を切り開くに怖じることのない彼は、無価値なものをけっして振りかえらないだろう。
それは死別に近い。
一歩蓬山を離れるごとに驍宗は泰麒を忘れる。驍宗と自分とをつないだものは日一日と細くなって、四門が開き、閉じた瞬間に断ち切れてしまう。
泰麒は立ち上がった。