悄然《しょうぜん》とうつむいてた泰麒が突然立ち上がったのを見て、汕子《さんし》はあわてて腕《うで》を伸ばした。駆《か》け出した身体《からだ》を抱き止めた。
「いけません、夜は──」
昼や早朝の比ではないのだ。時間は深夜をまわって生気に転じたばかり、これから妖魔《ようま》はもっとも活発になる。
「だめです、泰麒……!」
泰麒は汕子の手をかいくぐる。
どうあっても耐えられない。驍宗《ぎょうそう》と決別することだけは、耐えることができない。
「──どうしたの、汕子」
露茜宮《ろせんきゅう》から蓉可《ようか》が顔を出した。数人の女仙《にょせん》がその背後から不審《ふしん》そうな表情をのぞかせている。
女仙《にょせん》と汕子と傲濫《ごうらん》と。どんなに駆《か》けても、必ず捕まる。わかっていてなお、泰麒は駆けずにおれなかった。
汕子は跳《と》んで、逃げた子供の先へ降り立った。どうあっても、夜の黄海《こうかい》へ出すわけにはいかない。
李斎《りさい》の傷と、傲濫の身に染《し》みついた血気のせいで長く寝込み、ようやく外出できるようになったばかりなのだ。体力が落ちれば気力も削《そ》げる。いま妖魔《ようま》に出会っても、折伏《しゃくぶく》することは不可能に近い。
そして同時に、主《あるじ》の力が弱まれば使令《しれい》の力もまた弱まる。汕子も傲濫も、すでにそれほど泰麒と縁が近い。汕子自身にもわかっていた。小物の妖魔ならいざしらず、傲濫のごとき妖魔に出会えば、この麒麟《きりん》を逃がしてやることさえできない。
必死の思いで、駆ける身体《からだ》を抱き止め、捕まえようとした。
「泰麒」
──かわされた。
汕子は空《くう》を抱いた己《おのれ》の両手を見る。確実に捕《と》らえたと思ったのに。
わずかに狼狽《ろうばい》し、すぐさま振りかえってさらに腕《うで》を伸ばす。泰麒の手を捕らえようとした手はまたも宙をつかんだ。子供はただ、がむしゃらに逃げようとしているとしか思えないのに、やはり捕らえることができなかった。
──同じだ、と汕子は瞠目《どうもく》する。
傲濫を捕らえた、あのときと同じだ。なにかの罠《わな》にはまりこんだように、どうしても泰麒を捕まえることができない。
──なぜ。
ようやく己の力に目覚めはじめたばかりの、小さな無力な麒麟でしかないのに。
「傲濫!」
汕子の声に、岩陰から躍《おど》り出た獣《けもの》が泰麒のゆくてを遮《さえぎ》ったが、細い小道いっぱいに立ちふさがった獣を、どんな魔術でか泰麒はかわした。
もう一度跳躍して汕子は子供の正面に立ちふさがった。抱き止めようとした腕をかわされ、かろうじて腕をつかみかけ、そうしてそれすらもかわされて、やっとのことで夜着をつかんだ。
「泰麒、お願いです、夜は──」
汕子は言葉をとぎらせた。駆けつけてきた女仙もまた口を開けて足をとめる。
汕子がつかんだ夜着はふわりと抵抗を失って手の中に残された。
「あ……」
思わず声をあげ、同じように声をあげ顔をあげている女仙《にょせん》の視線を追う。
月の夜、奇岩は黒く、影の色もまた黒い。稜線だけがわずかに銀の、その奇岩のあいま。
──燐光《りんこう》を放って夜を駆《か》け上がっていく獣《けもの》が見えた。
「泰麒……」
まだ短い鬣《たてがみ》は鋼《はがね》の色。
黒に銀と雲母《うんも》を散らした背、漆黒《しっこく》の脚、漆黒の首。
額《ひたい》に短く真珠の一角。
──追わなければ。
汕子は手の中に残された夜着を握りしめる。
だがしかし、全力で疾走する麒麟《きりん》に追いつけるものが、この世にいようはずもない。