汕子《さんし》は驍宗《ぎょうそう》の足元に額《ぬか》づいた泰麒《たいき》を見て、そう納得《なっとく》した。
彼女は泰麒が驍宗に対し、なにかしら怯《おび》えのようなものを抱いていることを了解していた。
確かに驍宗になついていたが、もともと人なつっこい気性の子供なので、それ自体は特別のこととは思えない。なつくといえば、李斎《りさい》には驍宗以上になついているように見えたものを、それでもなお泰麒が驍宗にこだわるわけが理解できなかった。
泰麒の気配──それはいまでも金の光として汕子の目に映る──を追って、黄海《こうかい》までを駆《か》けながら、汕子は釈然としない気分を味わっていた。
なぜ、逃げる泰麒を捕まえられなかったのか。
なぜ、突然あの麒麟《きりん》が転変《てんぺん》したのか。
ばくぜんと到達した解答は「意志」だった。断固として自分の行動を妨げさせまいとする強い意志。なにをおいても駆けてゆくのだという意志の力。
──それが泰麒を捕まえようとする汕子の手を無意識のうちにためらわせ、今日まで不可能であった転変を可能にした。
問題は、なぜ驍宗がかかわっているときに限って、泰麒が彼には似合わぬ強い意志の力を見せるのか、ということだった。
いっそ脆弱《ぜいじゃく》に見えるほど、覇気《はき》の薄い麒麟である。それがなにに由来するものかは知らないが、泰麒にはひどく自分をかろんずる性癖《せいへき》がある。それはときに度を超《こ》して、謙虚《けんきょ》というよりも卑屈《ひくつ》に思えるほどだった。
その麒麟が、なぜよりにもよって驍宗がかかわったときにだけ、あれほど強い意思をみせるのか。汕子にとって泰麒の安全以上に重大なことなどありはしないのに、その汕子の手をとどめるほどの、饕餮《とうてつ》を使令《しれい》に下してみせるほどの、初めての転変を可能にするほどの意志の力を発するのだろう。
それが、泰麒が実のところ隠し持っている力のせいなのか、もっと別の理由によるものなのか、汕子にはどうしてもみきわめがつかなかった。
隠伏《いんぷく》していれば泰麒の影にしがみついてどこまでも一緒についていけたものを、なまじ泰麒を止めようとして姿を顕《あらわ》したために離れてしまった。それに歯噛《はが》みしながら傲濫《ごうらん》とともに岩山を駆《か》け、蓬山《ほうざん》の麓《ふもと》でやっと主《あるじ》に追いついた。
そしてその姿を見て、理解した、と思った。
──泰麒は必死だったのだ。
本人がそれを意識していたかはともかく、本人の能力を大きく超えた力を引きずりだしてしまうほど、泰麒は必死だったのだ。──驍宗が王であったゆえに。
汕子が窪地に向かって岩場を下りると、泰麒は彼女を振りかえった。どこか怯《おび》えたような、途方にくれたような表情に見えた。
それに微笑《ほほえ》んで、汕子は己《おのれ》の姿を溶かして泰麒の影の中にまぎれこんだ。
驍宗が王だったのなら、なぜ泰麒が驍宗に対しあれほど怯えたのか、なぜいまにいたるまで驍宗が王であることがわからなかったのか、釈然としないことは残るが、泰麒に追いついてしまえばもうどうでもいいことに思われた。
けっきょくのところ、汕子には泰麒以上に重大なことなどありはしないのだ。
驍宗一行が蓬山に戻ると、甫渡宮《ほときゅう》の前に血相を変えた女仙《にょせん》たちが集まっていた。
「泰麒……! ご心配申しあげました」
計都《けいと》から驍宗によって抱き降ろされた泰麒を見て、真っ先に蓉可《ようか》が駆《か》け寄ってくる。
「いったいどういうことでございます。……驍宗殿も」
驍宗はそれにはただ笑んだだけだった。代わりに驍宗の随従《ずいじゅう》が高らかに答えた。
「公《こう》は主君を追ってこられたのだ!」
甫渡宮の周囲に集まった人々からざわめきが起こり、それがやがて歓声になった。
蓉可は、太い笑みを浮かべて自分を見返す驍宗と、その驍宗に引き寄せられてどこか怯《おび》えた顔をしてる泰麒を見比べた。
「主君……。では」
蓉可は膝《ひざ》をついた。
「天啓《てんけい》でございますか」
泰麒は返答ができなかった。代わりに肯定《こうてい》の声が周囲の随従から上がり、さらにどこからともなく強い声がした。
「契約をおすませです」
汕子の声だった。
蓉可は驚いたように口を開いた。見張った目を禎衛《ていえい》に向け、禎衛はものものしい表情でそれにうなずく。膝をつき、両手をついてその場に平伏した。周囲の女仙が禎衛にならった。
「お慶《よろこ》び申しあげます、驍宗様」
泰麒の肩に手を置いた人物は、笑みを浮かべたままうなずく。
禎衛は平伏したまま言った。声はかすかに震えていた。
「万歳をお祈り申しあげます。……泰王《たいおう》ならびに泰|台輔《たいほ》」
──泰麒の罪は確定した。