驍宗が逗留《とうりゅう》したのは、外に最も近い丹桂宮《たんけいきゅう》だった。
蓬廬宮の中ではもっとも大きなこの宮で、天勅《てんちょく》を戴《いただく》くために吉日を待つのが古来からのしきたりである。
以後、驍宗に対する女仙《にょせん》の待遇は一変した。彼はすでに女仙の主《あるじ》である泰麒《たいき》の主君である。おさおさ疎《おろそ》かにするわけにはいかなかった。
多くの女仙《にょせん》が驍宗一行に仕えるために丹桂宮につかわされた。起床から就寝にいたるまで、驍宗主従の面倒はいっさいがっさい女仙たちがみる。
それは劇的といっていい変化だった。
ついさきごろまで驍宗に敬意を求めていた相手が、いまは驍宗に礼を尽くす。
すでに驍宗は女仙の誰に対しても頭を下げる必要はなかったし、蓬山公《ほうざんこう》に対してもそれは同様だった。一歩蓬廬宮の外に出れば、昨日までの同輩が叩頭《こうとう》して礼拝する。
──驍宗は極みへ登ったのだ。
「おめでとう存じます」
李斎《りさい》がようやく祝賀に訪れたのは、吉日まであとわずかの頃合《ころあい》である。
「もう起きてよいのか」
「主上にはご心配をいただきまして、もったいのうございます」
李斎は平伏したまま頭を下げて、さらに泰麒に向かう。
「台輔《たいほ》にもお慶《よろこ》び申しあげます」
「……ありがとうございます」
李斎はその精彩《せいさい》を欠いた声に首をかしげた。
「失礼ながら、台輔はどうかなされたのですか」
問うと、子供は心もとなげな笑みを薄く浮かべる。
「いえ……あの、台輔と呼ばれるのが妙な感じなんです」
李斎は笑った。
「すぐにお慣れになりますよ」
「はい……」
不安げな泰麒に微笑《ほほえ》んで、李斎は驍宗を仰《あお》ぎ見る。
「実は、お祝いと同時においとまを述べにまいりました」
驍宗は少し眉根《まゆね》を寄せた。
「もう下山してだいじょうぶなのか?」
「はい。おかげさまで。いくぶん、こころもとないところもございますので、明日下山の衆と一緒《いっしょ》に下ります」
驍宗はうなずいた。
「それがよかろう。くれぐれも無事で。──戴《たい》でまた会おう」
「はい。ありがとう存じます」
短い会見のあと、丹桂宮を辞去しようとする李斎を見やって、泰麒は驍宗を仰《あお》いだ。
「李斎殿をお送りしてきてもいいですか?」
驍宗は笑う。
「行ってこい」
言ってから、ふと驍宗は手を上げる。
「──ああ、李斎」
「はい?」
「禁軍から将軍がひとり欠けるが、どう思うか?」
驍宗の問いに、李斎はこともなげに笑った。
「欠けたままというわけにはまいりませんでしょう。諸将の功績を比べ、徳を比べて情けを用いずに抜擢《ばってき》なさるのがよろしいかと存じます」
「なるほどな」
驍宗は薄く笑う。ゆけ、と李斎を目線で促《うなが》した。
李斎は一礼して宮を出ていく。泰麒がその後を追っていった。