宮の奥には朱塗りの扉がある。暇《ひま》に飽《あ》かせて各宮をめぐって歩いた泰麒《たいき》が、かつてそれを開いてみた時には緑の岩壁が見えるばかりだった。そこにいま、忽然《こつぜん》と上へ上《のぼ》る階段が現れている。
水晶ででも作ったか、透明な階《きざはし》の下から光が当たって、あたりは明るい。その一種|幽然《ゆうぜん》とした階段の上に一羽の烏《からす》に似た白い鳥が待っていた。
女仙《にょせん》たちは床に平伏する。扉の前に進んだ驍宗《ぎょうそう》と泰麒に、玉葉《ぎょくよう》が深く一礼をした。
「王にも台輔《たいほ》にも、末永くご健勝であらせられますよう」
驍宗も泰麒も一礼を返す。
鳥に促されて驍宗が一段を踏《ふ》み出した。とたんに驍宗の背中が硬直する。
一瞬、泰麒の血の気が引いたのは、必ず罰せられるだろうという確信があるからだ。
息をつめて見守ったが、なにごともなかったかのように驍宗がさらに一段を上ったので後に続いた。
一歩を踏み出して、泰麒は驍宗が硬直したわけを悟《さと》る。
──なにか、電流のようなもの。
足元から頭頂までを一気に貫いたそれは、泰麒の脳裏にひとつの思念を刻《きざ》みつけた。
──いわく、元初《げんしょ》に九州四夷《きゅうしゅうしい》あり。
百姓《ひゃくせい》条理《じょうり》を知らず、天子条理を知れどもこれを嗤《わら》いて敬うことなし。天地の理《ことわり》を蔑《ないがし》ろにし、仁道を疎《おろそ》かにして綱紀《こうき》を軽んずること甚《はなは》だし。風煙|毎《つね》に起こりて戦禍万里を塵灰《じんかい》にす。人馬失われて血溝を刻み大河をなす。
天帝、これを愁《うれ》えて道を解き条理を正さんとせんも、人|淫声《いんせい》に耽溺《たんでき》して享楽を恣《ほしいまま》にす。
帝悲嘆して決を下す。我、いまや九州四夷を平らげ、盤古《ばんこ》の旧《ふるき》にかえし、条理をもって天地を創生し綱紀をもってこれを開かん、と。
ひかれるように次の一歩を上がった。
──帝《てい》、十三国を拓《ひら》き、中の一国をもって黄海《こうかい》・蓬山《ほうざん》となし、王母をしてこれを安護せしむ。
残る十二国に王を配し、各々《おのおの》に枝を渡して国の基業となさしむ。
一虫あり。解けて天を持ち上げこれを支う。
三果あり。一果落ちて玉座をなし、一果落ちて国土をなし、一果落ちて民をなす。
枝は変じて玉筆をなせり。これをもって開檗《かいびゃく》とす。
書きこまれた情報を吟味《ぎんみ》する暇《いとま》はなかった。
──太綱《たいこう》の一にいわく。天下は仁道をもってこれを治むべし。
民を虐《しいた》げてはならぬ、戦乱をたしなんではならぬ、税を重くし、令を重くしてはならぬ。民を贄《にえ》にしてはならぬ、民を売り買いしてはならぬ、公地を貯《たくわ》えてはならぬ、それを許してはならぬ。道をおさめ、徳を重ねよ。万民の安康をもって国家の幸福とせよ。
長い階段を一段上るごとに、情報が書きこまれていった。
天子の責務。宰相《さいしょう》の責務。天地のなりたち、国家のなりたち、制度のなりたち。仁道とはなにか、令とはなにか、してはならぬこと、すべきこと。定めるべきこと。定めるべからざること。
憑《つ》かれたように階段を上って、我に返ると泰麒は陽射しの中に出ていた。はたと振りかえった背後で朱塗りの扉が閉まる。階《きざはし》のいちばん上にたたずんだまま見送る鳥の目が陽射しに光った。
扉の閉じる微《かす》かな音とともに、泰麒の耳に音が蘇《よみがえ》った。
耳が最初に拾ったのは波の音、あわてて周囲を見まわした目が最初に拾ったのは見渡す限りの滄海《そうかい》だった。
「……雲海」
そういうのだと、すでに泰麒は知っていた。
天には雲海があり、これが天上と天下を分ける。
泰麒が立っているのは小さな島の上、背後には小さな祠《ほこら》があって、その朱塗りの門はいまやぴったりと閉ざされている。
正面には石段、石段の上には壮麗《そうれい》な廟《びょう》、島の周囲には遠くいくつかの島が見え、波涛《はとう》に洗われるその間を蓮《はす》に似た花が埋《うず》めている。
これからなにをすればいいのか、わかっていた。
廟に入り、西王母《せいおうぼ》と天帝の像に進香《しんこう》を行い、驍宗が道を守って徳を施《ほどこ》すと誓いの言葉を述べる。そうすれば玄武《げんぶ》が現れて、戴国《たいこく》の都、鴻基《こうき》にある白圭宮《はっけいきゅう》まで雲海を泳ぎ渡してくれるのだ。
泰麒は呆然《ぼうぜん》とした。血の気が引くのが自分でわかった。
──終わってしまった。
なんらかの選定がここでも行われ、きっと泰麒の嘘《うそ》はあばかれ断罪があるだろうと思っていたのに。それがどんな形にせよ、必ず罪を償《つぐな》う機会があるだろうと、そう信じていたのに。
そんなものは──なかった。
あの階《きざはし》を上って、天帝の業と意志を知ること、それが天勅《てんちょく》を受けることのすべてだったのだ。
一気に増す罪の重さ。過《あやま》ちが正される機会はなかった。そうして、泰麒は王の威儀を知ってしまった。
あまりに重い、その責務。王は国を統治するだけでなく、王の存在そのものが国を守る要になる。王は一国の陰陽《おんみょう》を調《ととの》え、八卦《はっむ》を律する。王という要素が国の運命をよい方向へ変えるはたらきをするのだ。
泰麒は、黙したまま感無量の表情で雲海を見わたす主《あるじ》の横顔を見上げた。
王はその存在そのものが国家を鎮護し、百姓《ひゃくせい》を安寧《あんねい》する。
ひどい目眩《めまい》がした。
──では、この偽《いつわ》りの王が統治する戴国の命運は。