玄武は小島ほどもある巨大な亀、蓬山《ほうざん》頂上の廟《びょう》を出た驍宗《ぎょうそう》と泰麒《たいき》をすでに雲海で待ちかまえ、岩のような首を岸に渡して甲羅《こうら》へと主従を招いた。甲羅は岩の手触りのする無数の突起で蓬山のよう。どこからか現れたものか、首にも甲羅にも湿《しめ》り気《け》ひとつない。その中央には小さな宮がひとつ、まったくの無人だったが、一泊に必要な用意は完全に調《ととの》っていた。その亀──というより船──で旅する間に、戴国の王宮・白圭宮《はっけいきゅう》でも王を迎える準備が整えられていた。
亀の舳《へさき》に立った泰麒が最初に見つけたのは険しい形の島、近づくにつれ馬蹄形《ばていけい》をなす島の大きな入り江に面して無数の建物があるのが見えた。
壁はおろか柱、手すりにいたるまでが白、屋根は蓬廬宮《ほうろぐう》のそれより濃くて紺《こん》。それが波ひとつなく凪《な》いだ入り江の水面に映った風景は、絵空事《えそらごと》のように美しかった。
「あれが白圭宮だ。みごとだろう」
ぼうっと見惚《みほ》れていた泰麒は、驍宗の声にうなずいた。
「あのあたりが政庁のある外殿《がいでん》、あのあたりが内殿《ないでん》だな」
驍宗は手を上げて示す。
「蒿里《こうり》が住むことになる仁重殿《じんじゅうでん》は、あのあたりにある」
驍宗は水際にある建物の一群を示した。
「ぼくもここに住むんですか? 家来なのに?」
「むろん、そうだ。蒿里は臣とはいえ、ただの臣とはわけがちがう。国が船なら王は帆、麒麟《きりん》は錨《いかり》だ。どちらもけっして欠けてはならぬもの」
「はい……」
玄武がいよいよ入り江に入ると、王宮のあちこちに無数の幡《はた》が立ち、正面の大きな建物の前に多くの人々が整列し平伏しているのが見えた。玄武がふたたび岸に首を渡した。
平伏した人々の間を抜け、正面の宮殿に昇り、大勢の人間の祝賀を受ける間に、泰麒は完全に狼狽《ろうばい》してしまった。
人に平伏されることにも、人に仕えられることにも慣れたつもりでいた。華美で贅沢《ぜいたく》な生活にも慣れたつもりでいたのに、王宮に用意されていたものは、蓬廬宮のそれとはまったく規模がちがっていた。
汕子《さんし》を呼んでせめて手を握っていたかったが、それはしてはならないと蓉可《ようか》に申し渡されていた。王を選んで生国《しょうごく》に下った以上、大人《おとな》になったとみなされる。汕子はすでに乳母《うば》ではなく使令《しれい》で、使令をたやすく人前に呼び出してはならないのだ。
だから、一日がかりの儀礼が終わって自室に退《さ》がり、牀榻《しょうとう》の帳《とばり》を下ろしたときには心底ほっとした。
「……汕子」
隣の部屋にはいつでも泰麒の用を足せるように、八人もの侍従が控えている。それでごく小さな声で呼んだ。
「どうなさいました」
いつもは即座に姿を現す汕子が、声しか現さなかった。
「汕子」
「もう大人《おとな》におなりなのですから、添い伏しはできません」
「……だめなの?」
泰麒は広い──露茜宮《ろせんきゅう》のそれよりも広い──布団《ふとん》の上に身を起こした。
「姿は見えずとも、いつでもおそばにおります」
「……でも」
「おやすみなさいませ」
言われるままに、もういちど横になったが、少しも眠れそうな気がしなかった。
ふと、笑う気配を感じて、上がけの下に入れた手の先に指の感触がした。汕子の手にちがいなかった。
汕子の手の感触が、しっかり泰麒の手を包む。
「……おやすみなさいませ」
「……うん」
ようやく安堵《あんど》して目を閉じたが、眠りは浅いであろうこと、夢は悪夢にちがいないことを、泰麒自身わかっていた。