泰麒《たいき》も宰輔としての生活を始めなければならなかった。
定時には起きて、礼典にのっとって衣服を調《ととの》え、定刻に外殿《がいでん》に出仕し、朝議に参加する。以後は午《ひる》まで王のそばに控えて、政務を補佐する。とりあえず座って見守っていることしかできなくても、それは麒麟が必ず果たさなければならない責務だった。
午を過ぎ、午後の執務を終えると王は居宮へ退《さが》る。宰輔もまた自室に退ってもよかったが、泰麒は驍宗《ぎょうそう》が寝るまでそばを離れなかった。
驍宗がとりあえず行わなければならないのは、己《おのれ》のための即位の儀式を準備することだった。
そのかたわらで、新しい態勢を作らなくてはならない。先王が残したもののうち、拾うべきを拾って捨てるべきを捨てる。臣の任免と法の整備が中でももっとも重大な課題だった。
「大師《だいし》の訴えはどうなさるんですか?」
驍宗は自室の長椅子に横になって書類を眺めている。泰麒はそばの床に座っていた。
「とりあわぬ」
先帝は奢侈《しゃし》の果てに道を失った。それを承知していた驍宗が、玉座について最初に行ったことは最小限の人数を残し、侍従・女官のことごとくに暇《ひま》を出すことだった。当面使うあてのない宮は閉鎖されることになった。
大師は音楽士の長《おさ》、その大師から免職される楽師の数が多すぎると訴えがあった。
「わたしは武人あがりゆえ、楽などわからぬと言ってやる」
「……でも、免職になるとやっぱりみんな困るでしょうから……」
「先王の残した楽士がどれだけいるか知っているか?」
泰麒は首を振る。
「いいえ」
「わたしも知らぬ。だが、尋常《じんじょう》の数でないのは確かだ。なにしろ内殿に来ると、各殿ごとにちがう楽の音がしていて、しかもそれが一日中|絶《た》えることがないというありさまだったのだからな。王が内殿にいようといないとおかまいなしで、朝議の席にまで聞こえていた」
「へぇ……」
「王宮で楽士をやっていたといえば、職には困るまい。賓客《ひんきゃく》があったとき、無礼にならぬていどがおればよいのだ」
「大師は、即位の儀で使う楽士も少なすぎるのでは、と言っていましたが」
「あれでいい。なにしろ戴《たい》は貧しいのだから」
「春官長《しゅんかんちょう》も即位の儀があれでは、少し質素すぎないかと言っておられましたけれど」
春官長は六官の一、礼典・祭祀《さいし》を司る。
「みすぼらしいと笑いたい者には笑わせておく。きどったところでしかたがあるまい。先帝の奢侈で、国庫は完全に傾いている。倉にあるのは借金の証文ばかりなのだから」
「はい……」
泰麒は幼く、政治のしくみはもちろんのこと、大人《おとな》の社会のしくみもよくわからない。戴国の事情に明るいわけでもない。
反対に驍宗は、内殿にも出入りができる重臣だったのだから、そもそも泰麒の助言などまったく必要ではないのだ。それは自分でもわかっている。
「春官長も人選を考えたほうがよかろうな」
書面をながめてつぶやいた驍宗を泰麒は見る。
「先王は派手な式典がお好きであったゆえ、あれも華美を好む」
「……でも、そんなにお急ぎにならなくても……」
驍宗は泰麒を見て笑った。
「そのとおりだな。春官長はしばらく様子《ようす》を見よう」
泰麒はうつむく。驍宗の笑みで、彼が泰麒にあわせてくれたのだとわかった。
「……すみません。よけいなことばかり言って……」
「よけいなことはない。泰麒がいちいち聞いてくれると頭が冷える」
それが配慮で言ってくれている言葉だと、泰麒にも重々わかっている。
「……もうしわけありません……」
首を垂《た》れた泰麒を見やって、驍宗は身を起こした。
「──蒿里《こうり》。なにを憂《うれ》えているのか、言う気はないか?」
驍宗に問われて、泰麒はあわてて首を振る。
「いえ、なにも」
驍宗はながめていた紙を置いて、ひょいと泰麒を抱き上げた。
「それとも蓬山《ほうざん》がそんなに恋しいか」
「女仙《にょせん》が恋しければそう言うてもよいのだぞ? おまえは気兼ねをしすぎる」
「そういうことでは、ありません」
「では、気鬱《きうつ》の理由はなんだ? そんなことはない、などと言うてくれるなよ。おまえはまだ小さいのだから、無理をすることはないのだからな」
泰麒には返答ができなかった。
「即位の儀が終われば、真っ先に慶国《けいこく》へ遣《つか》わしてしんぜよう。少し景台輔《けいたいほ》に甘えてくるがいい」
「……そういうわけには、いきません」
「わたしはそんなに無能に見えるか? わたしに任せておくのはそんなに不安か?」
泰麒は首を振ったが、それは必ずしも真実ではなかった。
見守っていなければ、と思うのだ。
一刻も目を離してはならない。驍宗の人となりを信じないわけではないが、万が一にも道を踏《ふ》みはずさせてはならない。
──驍宗には天啓《てんけい》がないのだから。
驍宗は抱き上げた子供のかたくなな表情に内心|眉《まゆ》をひそめた。
いったいなにが泰麒を悩ませているのだろう。単に女仙が恋しいだけとも思えない。
大役に身がすくんでいるのか。それとも。
蓬山で出会った頃から考えれば、日一日と気鬱《きうつ》が進むように思うのは気のせいだろうか。
驍宗は子供を床に降ろした。
「とにかく、休め。なにも夜中までわたしにつきあうことはない」
「だいじょうぶです」
「だいじょうぶではなかろうが。自分がどんな顔色をしているか、わかっているか?」
「いいえ……」
言いさした子供の頭に手を置いた。
「命ずる。今宵は宮に退《さが》るように。しばらく午《ひる》をすぎても宮を出ることはまかりならぬ」
「主上──」
「なにごともおまえに無断で決めたりはせぬと約束する。だからしばらく休むように。──返答は」
泰麒は目を伏せた。
「……はい」