泰麒《たいき》の起居する仁重殿《じんじゅうでん》には瑞州の政庁があって、午後からの短い時間がその政務に割り当てられている。
とはいえ、麒麟《きりん》は王の一部、実のところ瑞州を統治するのは王であるといってまちがいはない。
いまのところ、泰麒には天勅《てんちょく》によって知った最低限の知識のほかは、右も左もわからないといってよかった。それで政務といっても実際は、官が奏上することがらを黙《だま》って聞き、わからないことを質問するという、ほとんど勉強時間とかわらない状態になっている。
驍宗《ぎょうそう》はその間仁重殿を訪れて、ときおり口をはさみながら泰麒を見守っている。それを終えると自分の執務に戻るために内殿《ないでん》へ帰っていくが、断固として泰麒が後をついていくことを許さなかった。
それでしかたなく、午後の大半を自宮に退《さが》ってぼんやりしている。側近は当初常に八人もいたが、大幅に減らされて二人になっている。女官《にょかん》ばかりを残してくれたのは、女仙《にょせん》に囲まれることに慣れた泰麒に対する、驍宗の配慮だろう。夕餉《ゆうげ》にも必ず呼んでくれる。それもまた配慮なのだとわかっていた。
それほど気遣われて、かえって泰麒には休むことができない。
驍宗が心を配ってくれればくれるほど、追い詰められた気分になるのを止められなかった。
溜《た》め息《いき》ばかりが漏《も》れる午後、内殿に戻った驍宗から突然の呼び出しがあった。
泰麒はあわてて内殿にかけつける。──即位の儀が行われる吉日まで、あとわずかの頃である。
「台輔《たいほ》、賓客《ひんきゃく》がおみえだ」
他国の賓客をもてなすためにある掌客《しょうきゃく》の間だった。開け放った扉の向こうに、驍宗は立っている。
珍しく台輔と呼んで、振りかえった驍宗はどこか悪戯《いたずら》めいた笑みをはいていた。
「……お客さま、ですか?」
来客のあろうはずがないのだが。
思ってふと、泰麒は首をかしげた。周囲になにかを感じたからだ。
なにかを見たような気がした。それであらためて周囲を見まわしてみると、ごく淡く金の光の泡《あわ》のようなものがたゆたっているように見えた。それはなにかがぶれて動いたように、薄い帯びをなしているようにも見える。
まさか、と鼓動が鳴るのを感じた。
小走りに入室し、そこにいる人影を見て泰麒は目を見開く。
「……景《けい》台輔」
彼はごく薄く笑った。そうして、ていねいに会釈をする。
「このたびは、無事の下国、心からお喜び申しあげます」
駆《か》け寄ろうとして足が止まった。景麒《けいき》の顔をまっすぐに見ることができなかった。
「……ありがとう……ございます」
深く面伏せた子供を、景麒は怪訝《けげん》な思いで見る。この変わりようはどうだろう。
わざわざ驍宗が使いをよこした理由がわかった気がした。
即位までは、はばかって訪問を控えるのが礼儀、そうでなくとも王や麒麟《きりん》は他国の主従とあまり深くは交わらない。事実、景麒にしても、つきあいと呼べるほどの交際があるのは、王を探す過程で世話になった隣国の延王《えんおう》延麒《えんき》ぐらいなものである。
驍宗は先王の重臣、それを知らぬはずもないが、あえて慣習を破って景麒を名指しに使いをよこしたのはこのせいだったのだと納得《なっとく》した。
「お約束どおり、一番にさんじました。御身、お変わりないか?」
「はい」
うつむいた表情が堅《かた》い。見上げてくるまっすぐな目も、こぼれるような笑みも見えない。
「そうはお見うけできませんが。……いかがなさいました」
「べつに──」
眉《まゆ》をひそめてふたりを見守っていた驍宗は声をはさんだ。
「おふたりで積もる話もござろう。わたしはこれで失礼申しあげる」
景麒が会釈をし、泰麒がやむをえずそれにならった。
驍宗はこれから繁雑な仕事に戻るのだろうが、ついていくと言っても通らないのを──いつもに増して今日は来客があるのだから──わかっている。
軽く頭を下げたまま驍宗が退出するのを見送ってから、景麒は泰麒を振りかえった。
「お庭をご案内くださるか?」
「どうぞ……。ご案内できるほど、ぼくも詳《くわ》しくないのですけど」
「お庭を散策なさるほどの余裕もおありでなかったか?」
泰麒は庭に向かう扉を開いた手を止めた。
返答する言葉がなかった。