六太《ろくた》はぼんやり宮城《きゅうじょう》の露台《ろだい》から雲海越しに見る関弓《かんきゅう》の緑に見入っていた。
新王|登極《とうきょく》から二十年。国土はなんとか復興に向かいつつある。
雁州国《えんしゅうこく》、その都、関弓山。王宮である玄英宮《げんえいきゅう》はその山の頂上にある。一面に広がる雲海の中に浮かんだ小島である。
空の高所には雲海があってこれが天上と天下を隔《へだ》てる。天下から見上げても水のあることは分からない。凌雲山《りょううんざん》の山の頂《いただき》に打ち寄せた波頭が白く雲のように見えるだけだ。天上から見ればうっすらと青みを帯びた透明な海、その深さはほんの身の丈ほどに見えるのに、潜《もぐ》ってみてもとうてい底にはたどりつけない。その雲海の水を透《す》かして地上が見えた。小麦が作る碧《あお》い海。山々によみがった緑、廬《むら》や里《まち》を守る木々。
「二十年でこんだけ、って言い方もできるけど」
六太は手摺《てすり》に両腕をのせて、腕の間に顎《あご》を埋めている。雲海の水が露台《ろだい》の脚にぶつかり、音を立てて崩れては潮の匂いを打ち寄せていた。
「──台輔《たいほ》」
「ま、こんだけでも上出来か。玄英宮に入ったときには真っ黒な地面以外、なーんも見えなかったもんなぁ……」
かつては一面の焦土《しょうど》だった。二十年をかけてとりあえず緑が目立つ程度には、国は立ち直り始めている。他国に脱出していた人々も徐々に戻って、農作業する人々が声を合わせて歌う声が年ごとに大きくなっていた。
「台輔」
「──んあ?」
六太は手摺に肘《ひじ》をついたまま振り返った。書面を持った朝士《ちょうし》がにっこり笑う。
「おかげさまをもちまして、今年の麦は良い出来のようでございます。台輔におかれましては、ご多忙のさなかにまで下界へのお気遣い、民に代わってお礼申しあげますが、拙官《せつかん》の奏上にもいま少しお気遣いいただけますと、さらに嬉《うれ》しく存ずるのでございますが」
「聞いてるって。どんどん続けて」
「失礼ながら、いま少し真摯《しんし》にお耳をお貸し願えないでしょうか」
「まじめ、まじめ」
朝士は深い溜《た》め息《いき》を落とした。
「そのように子供じみた格好をなさらず、せめてこちらをお向きください」
六太が腰を下ろしているのは露台に置かれた陶《とう》の獅子《しし》の頭の上で、これはいささか椅子には高い。気がつけばもてあました足をぷらぷらと揺すっては欄干《らんかん》を軽く蹴《け》っている。
六太は背後に向き直って、にっと笑ってみせた。
「おれ、まだ子供だしー」
「御歳《おんとし》お幾つにおなりで?」
「三十三」
齢《よわい》三十を過ぎた地位のある男のすることではないが、外見ならば十三かそこらに見えるだろう。別段奇異なことではない。雲海を見下ろして暮らす者は総じて歳をとらないものだからである。六太に限り、もう少し歳をとってもよかったはずだが──麒麟《きりん》は普通、十代の半ばから二十代の半ばで成獣になる──、玄英宮に入った頃からぴたりと成長が止まってしまった。外見が成長しないと中身も成長が滞《とどこお》るのか、はたまた他者が外見に従って子ども扱いするからなのか、気性のほうもやはり十三のまま、少しも成熟した感がない。ちなみに歳は夫役《ぶやく》の関係から満で数えるのが習わしである。
「責任ある御方《おんかた》が、壮年にお入りになって、いまだそのありさまとは。宰輔《さいほ》といえば王を補佐して民に仁道《じんどう》を施すのがお役目、臣の中では唯一|公爵位《こうしゃくい》をお持ちになる重臣の筆頭、いま少しご身分を自覚していただきたいものです」
「ちゃんと聞いてたってば。漉水《ろくすい》の堤防だろ? でも、そういうことは主上に言ってもらわないとなー」
朝士は細く形のいい眉《まゆ》をぴくりと動かす。色白で痩身《そうしん》の優男《やさおとこ》だが、この外見に騙《だま》されてはならない。氏は楊《よう》、字《あざな》は朱衡《しゅこう》、王自ら下した別字を無謀《むぼう》という。無謀の字はゆえのないことではない。
「……では、おそれながらお訊《き》きしますが。その主上はどちらにおいでで?」
「おれに訊くな。関弓に降りて女でも引っかけてるんじゃねぇの?」
朱衡は柔和な顔に微笑を浮かべた。
「台輔はなぜ朝士の拙《せつ》めが、漉水の話をさせていただいているのか、お分かりでないようですね?」
「あ、そっか」
六太はぽんと手を叩く。
「治水《ちすい》のことは、しかるべき官から言ってもらわないと。おまえの仕事じゃないだろう?」
朝士は警務法務を司る官、特に諸官の行状を監督するのが務めである。治水工事ならば土地を司る地官《ちかん》の管轄、少なくとも地を整える遂人《すいじん》か、さらに形式を言うなら、地官長《ちかんちょう》もしくは六官をとりまとめる冢宰《ちょうさい》が奏上するのが筋であろう。
「ええ、わたくしの仕事ではございませんとも。しかしながら、延はこれから雨期、治水が至らねば台輔がただいまお慶びの緑の農地も、ことごとく沈んでしまうのでございます。一刻も早くご裁可をいただかなくてはならないものを、肝心の主上はどちらにおいでなのでございますか?」
「さー?」
「この件に関しまして、今日この時刻をご指示なさったのは他ならぬ主上でございます。責任ある御方《おんかた》がお約束を反故《ほご》になさるとは。王は諸官の模範となるべきお方でございますのに」
「あいつはそういう奴なんだってば。ほんと、でたらめなんだもんなー」
「主上は国の御柱《みはしら》、その大柱が揺らげば国も揺らぎましょう。朝議にもおいでにならない、御政務のお時間にもどちらにおられるか分からない。そんなことで国がたちゆくとでも思《おぼ》し召《め》すのですか?」
六太は上目づかいに朱衡を見上げた。
「そういうことは、尚隆《しょうりゅう》に言ってほしーんだけど」
朱衡は再び柳眉《りゅうび》を震わせて、いきなり書面で卓を叩く。
「──台輔が今月、朝議にいらしたのは何度ですかっ?」
「えーと……」
六太はじっと手を見て指を折る。
「今日と、こないだと、……それから」
「お教え申しあげれば四度です」
「お前、よく知ってるな」
朝士は朝議に参加しない。それほど高位の官ではないのである。六太が半分、呆《あき》れた気分で見上げると、朱衡はたいそう柔和な笑みを浮かべた。
「それはもう、王宮の端々《はしばし》で諸官が嘆いておりますから。──朝議というのは、本来毎日あるものなのですよ、ご存知ですか?」
「それはー」
「それを三日ごととお決めになったのは主上でございましたね。三日ごとといえば月に十度。もはや月が終わろうというのに、台輔のお出ましがあった朝議がわずかに四度とはどういうわけでございますか?」
「えーと」
「主上におかれてはわずかに一度! 主上も台輔も国の政《まつりごと》をいかが思《おぼ》し召《め》しか!」
ごつん、と激しい音がした。露台《ろだい》で椅子が倒れた音である。六太が見ると、いつのまにか遂人の帷湍《いたん》が控えていたらしい。その帷湍も額に青筋を立てて肩を震わせている。
「どうして、王宮におとなしくしていないんだ、この主従は!」
「帷湍、いつのまに来てたんだー?」
六太の愛想笑いは凍《い》てつくような視線でもって迎えられた。
「まったく、この浮かれ者どもが。雁が成り立っているのが不思議だぞ!」
「大夫《だいぶ》、大夫」
朱衡が苦笑交じりにたしなめたが、帷湍はすでに踵《きびす》を返している。
「大夫、どちらへ」
「──ひっとらえてくる」
足音高く出ていった異端を見送って、六太は溜め息をついた。
「あいにく」
朱衡は微笑《わら》って六太を見る。
「拙《せつ》も帷湍ほどではございませんが、たいへん気の短いほうで」
「あ、そお?」
「朝議にはお出ましにならないゆえに、いっこうにご裁可がいただけず、帷湍めがあえて奏上申しあげれば、後日にせよとおっしゃる。今日この時刻をご指定いただいたものの、待てど暮らせどおいでにならない。本来ならば、そういったときにこそ王を補佐するお役目の台輔にお聞き届けいただかなくてはならないものを、その台輔までがうわのそら」
「えーと」
「再度このようなことがございましたら、拙《せつ》にも覚悟がございます。畏《おそ》れおおくも主上といえど、台輔といえど、容赦《ようしゃ》いたしませんのでそのおつもりで」
「あはははは……」
力なく笑って六太は頭を下げる。
「悪かったです。反省します」
朱衡はにっこりと笑う。
「苦言を心広くお聞きになる、それはたいへん結構でございます。本当にお分かりいただけましたでしょうか?」
「分かった。ほんと」
では、と朱衡は懐《ふところ》から書物を出して六太に向かって差し出した。
「この太綱《たいこう》の天の巻、一巻には天子と台輔の心得が書いてございます。反省の証《あかし》として朝議をお休みになったぶんだけ書写なさいませ」
「朱衡ぉ」
「明日までに一巻を六部でございます。──よもや嫌《いや》とはおっしゃいませんでしょうね?」
「そういうことをしてたら、政務が滞《とどこお》るんじゃないかなー?」
上目づかいに見上げた優しげな顔は、けちのつけようのない笑顔を浮かべる。
「いまさら一日滞ったところで、大差はございませんよ」