麒麟は一国に一、揚力甚大の神獣《しんじゅう》であり、天意を受けて王を選ぶ。その麒麟が生まれるのが世界中央にある五山東岳|蓬山《ほうざん》、自ら王たらんと恃《たの》む者は蓬山に昇って麒麟に面会する。この麒麟に面会して天意を諮《はか》ることを昇山《しょうざん》という。
──なぜ、と帷湍は戸籍を玉座の壇上に叩きつけた。
「なぜ登極《とうきょく》に十四年もかかった。麒麟は六年もあれば王を選べる。貴様がもたもたと昇山せずにいたせいで、八年もの歳月が無駄になった。これはその八年分、関弓の戸籍だ。八年の間にどれだけの民が死んだか、その目で確かめろ」
新王登極に浮かれていた場は、一瞬のうちに静まり返った。
異端は玉座の王を見る。彼はただ興味深そうな表情で、階《きざはし》の上に投げ捨てられた戸籍と帷湍を見比べていた。
八つ当たりだったのかもしれない。帷湍はただ、雁の窮状《きゅうじょう》を王に知っていてほしかった。信じがたいほどの荒廃だった。玉座の埋まった王宮には光があふれていたが、下界には死と荒廃が蔓延《まんえん》している。誰もが新王さえ践祚《せんそ》すれば、と望みをつないでいたけれども、帷湍にはそれだけで国が立ち直るとはとうてい信じられなかった。
無礼な、と死を賜《たまわ》ることなど覚悟のうえだが、帷湍とて死にたかったわけではけっしてない。梟王の圧政を、王に背《そむ》かず、道にも背かず、王の不興もかわぬよう、かといって良心に悖《もと》ることもないよう、それは綱渡りするような気分でかろうじて生き延びてきたのだ。
新王が践祚した、これで全てがよくなると、官の誰もが言う。だが、すでに起こったことをなくすることは王とてできない。死んだ命は返らない。それを忘れて浮かれている官が恨《うら》めしかったし、きっと登極した喜びに浮かれているであろう王が恨めしかった。
これで自分が死んでも、晴れがましい場で起こったこの不快な出来事を王は忘れることができないだろう。諸官は登極早々臣下を斬《き》る王を見て、梟王の暴虐《ぼうぎゃく》を思い出し、少しは浮かれ気分をおさめるだろう。根拠もなくめでたいを連発する連中の、胸に落ちる一個の不快な石になるならそれでよかった。
異端は新王を見る。新王は帷湍を見る。しばらくの間、その場には空気の流れさえ絶えた。凍《こお》りついて動かない人々の中で、最初に動いたのは新王だった。ふ、と笑って御座を離れ、こだわりもなく戸籍を拾いあげる。軽く埃《ほこり》を払って帷湍に笑った。
「目を通しておく」
帷湍は呆然とし、しばらくその男を見つめていた。護衛する小臣《しょうしん》らにその場を引きずり出され、時の地官長《ちかんちょう》大司徒《だいしと》に官籍を剥奪《はくだつ》された。おとなしく家に帰り、処分を待って謹慎していた。逃げる気にはなれなかったし、兵が門前を固めていたので、そもそもそれはできなかった。
自ら謹慎すること五日。門を叩いた勅使《ししゃ》は勅命を携《たずさ》えていた。いわく、復職を許し遂人に叙すと。呆然としたまま拝謝のために昇殿した帷湍に、猪突猛進なやつだ、と王は笑い、のちに猪突と字《あざな》を下賜《くだ》し、今日に至っている。