浜に降り立って、果物や餅《もち》を転《ころ》がし出してやりながら六太は子供に問うた。妖魔を手懐《てなず》けるなど、聞いたことがない。あってはならないことだと聞いている。
子供はただ首を傾けた。
「そうなの?」
この返答には仰天《ぎょうてん》した。
「妖魔と妖獣以外に、空を飛ぶものがいるか。どうやって飼《か》い馴《な》らしたんだ?」
「知らない」
「知らない、って、お前な」
呆《あき》れてつぶやき、六太は肩の力を抜く。
「……驚いた」
「そうなの?」
「うん」
浜に座って話をした。目の前には黒海《こっかい》、世界中央を大きく囲む金剛山《こんごうさん》の峰々が壁のように立ちふさがっている。
子供は夜更《よふ》けに目覚めた。そして翌日、山に捨てられた。そんな話を彼は語った。
うなずきながら、六太は驚くべき邂逅《かいこう》に喘《あえ》いでいる。異世界の子供がふたり、互いに戦乱に困窮《こんきゅう》した親に捨てられ、ここで巡《めぐ》り合った。
「里《まち》の連中が捨てろといったんだろうなぁ。……大変だったな」
「そうかな」
「お前、名前は?」
「知らない」
かつてはあったのかもしれないが、覚えていないと子供は言う。
「それで流れついたのが、妖魔の巣穴だったのな」
「流れついたんじゃなくて、大きいのに運ばれたみたい」
「大きいの?」
こいつ、と子供は背後の妖魔を振り返った。妖魔はおとなしく子供を見守っている。
「大きいのは餌《えさ》を巣穴に運んでくるの。たぶんそんなふうにして運ばれたんだと思う」
「お前、餌のつもりだったのかな。──でも、育ててくれたのな」
そう、と子供はうなずく。呆《あき》れた話だ。前代未聞と言っていい。妖魔が子供を養うなんて。
「そういうことって、あるものなのか?」
六太は自分の背後に控えて警戒の色濃い目つきで妖魔を見守っている悧角を見やった。これに対する返答はない。たとえ使役されても、妖魔は自分たちのことを語らない。どんなに命じても己《おのれ》たちの種族について、いっさいを漏《も》らさなかった。本来妖魔はそれほど隔たった生き物なのである。
六太は追求を諦《あきら》めて子供に向き直った。
「でも良かったな。死なずにすんで。──それからずっと巣穴に住んでるのか?」
「ときどき出るけど。ご飯を食べに」
「大きいのは人を喰《く》わないのか?」
六太は訊《き》いたが、その返答は分かっていた。妖魔からはかなり離れているが、濃厚に血の臭気がする。これは人の血の匂いだ。
「……食べるよ。でないとお腹《なか》がすくでしょう」
六太は軽く喉《のど》を鳴らした。
「……お前も、喰うのか?」
子供はしゅんとうなだれた。
「食べない。人も獣も。……大きいのにもそう言うんだけど、聞いてもらえない」
だってね、と子供はどこか縋《すが》るような目で六太を見た。
「人や獣を襲ったら、人がみんな怖《こわ》がるもの。だから大きいのはいつも人から追いかけられるの。みんな追いかけて酷《ひど》いことをする。そうでなければ逃げていくの」
だろうな、と六太はうなずいた。無理にも笑って子供をなでる。
「でも偉《えら》いぞ。人は喰っちゃだめだぞ。襲わないにこしたことはない」
「うん。──六太はどこから来たの? 海のこちら側?」
そうだ、と六太がうなずくと、子供は身を乗り出した。
「──じゃあ、蓬莱《ほうらい》を知らない?」
「え──?」
六太は子供の顔を見る。
「蓬莱、って」
「海のずっと東に蓬莱って国があるんだって。そこに行くと誰も喧嘩《けんか》をしたり、酷いことをしたりしないの。お父さんがそこにいるの。ひょっとしらお母さんもそこにいるかもしれないでしょ? だからずっと探してるんだけど……」
言って子供は涙を浮かべる。六太はせつなくその姿を見つめた。
おそらく、父親は死んだのだ。母親はそれを言えずに、子供には蓬莱へ行ったと言った。──ありがちな話だ。その母親も子供を捨てざるをえず、捨てられた子供はいまも母親の言葉を信じて幻の国を探している。
「あのさ……蓬莱のある海はここじゃないんだ……」
六太が言うと、子供は目をまんまるにした。
「ちがうの? 海の東なんじゃなかったの? こっちが東なんでしょう?」
「この海は黒海っていう。蓬莱があるのはもっと東の海──虚海《きょかい》のことなんだ。でも、虚海の東のずっと遠くで、大きいのに乗ってもたどり着けない。本当に遠いところだから」
こちらから蓬莱へは行けない。虚海を渡ることができるのは、神仙《しんせん》と妖魔だけなのだと言われている。人には行けない。行くことができるのは卵果《らんか》だけだ。
「そう……だったの……」
子供は肩を落とした。おそらくは親の所在を探して、子供は蓬莱を探していた。海の東だと聞いたから、黒海の沿岸を訪ねまわっていたのだろう。だが──妖魔は脅威だ。街に近づいた妖魔を人々がどう扱うか、想像がつく。もちろんそれは妖魔が人を襲うからなのだが、この子供はただ養い親の妖魔が人を襲わないようになりさえすれば受け入れてもらえると思っているのだ。
「……ごめんな」
べつにそれは六太のせいではないのだけれど、肩を落とした子供の姿は落胆の色があまりに露《あらわ》で、詫《わ》びずにはいられない気分にさせた。
子供は何度も息をついて小さく、来いよ、と鳴く。近くの岩場にいた妖魔が岩の上から身を躍《おど》らせて、子供の側に寄った。子供はその人血に汚れた毛並みに顔を当てる。
ああ、と六太はいまさらながらに気づいた。子供はろくにしゃべっていないのだ。よくよく思い返せば、子供は言葉をしゃべらずに、さっきから半分以上鳴いている。麒麟《きりん》や神仙は妖魔や獣の意を悟《さと》る術を与えられているから、それでしゃべっているように聞こえただけなのだ。
妖魔は嘴《くちばし》の先を当てて子供の首筋をなでる。小さく鳴いた。これは言葉には聞こえなかったが、それでも戻ろう、と呼びかけているのは理解できた。子供は顔を上げる。しおしおと立ちあがった。
「……帰らないと」
「お前、また来るか?」
「……分からない。蓬莱がないんだったら、来てもしかたないね……」
言われて、六太は返答に詰まった。
「街に行くと、大人《おとな》が待ってて大きいのに酷《ひど》いことをするから……」
「……そだな」
それは必ずしも妖魔に対してだけではないだろう。襤褸《ぼろ》の裾《すそ》から出た子供の足には矢傷と思われる疵《きず》が幾つかあった。
「お前、街で暮らしたくないか?」
子供は振り返った。
「……大きいのも一緒に?」
「うーん。大きいのはだめだなぁ……」
「じゃあ、いい……」
そうか、と六太はうなずく。
「でも、もしも気が変わって、大きいのと離れても街で暮らしたくなったら関弓《かんきゅう》へ来い」
関弓、と子供は口の中で繰り返す。
「おれを訪ねて──ああ、でもお前、名前がないんだな」
「うん」
「なんか、つけろよ」
「分かんないよ」
「じゃ、つけてやる」
六太が言うと、子供は顔を輝かせた。
「──うん」
六太はしばらく考え込む。何度も首をかしげてから、ふと手を叩いて砂の上に文字を書いた。
──更夜《こうや》
「更夜、っての、どうだ」
「どういう意味?」
「よふけ」
子供はそれで納得した。
「──うん」
更夜、と何度も嬉しげに繰り返す。
もう二度と会うことはないだろう、と思いながらも、立ち去る更夜に六太は手を振った。
「更夜、困ったことがあったら関弓へ来い。おれは玄英宮《げんえいきゅう》で働いてる。六太って言えば分かるから」
うん、と妖魔に騎乗した子供は遠目に首をうなずかせる。
「必ず来るんだぞ、更夜!」