「生臭《なまぐさ》い話は終わったか?」
六太が言うと、まあな、と手元に目をやったまま尚隆は答える。何をそんなに熱心に、とのぞきこむと、紙と太綱《たいこう》の天の巻が広げられている。
「朱衡《しゅこう》に命じられたな。──どっちが主人なんだろな、ホントに」
「まったくだ」
言って尚隆は腕を組み、考えこむ風情《ふぜい》である。六太がのぞきこむと、尚隆らしいおおらかな文字が連ねられている。
──一に曰《いわ》く、天下はこれ金勘定をもって治むべし。
「……おい、こら、おっさん」
太綱の一は、天下はこれ仁道《じんどう》をもって治むべし、という著名な一文である。
「このうえ朱衡を怒らせてどーすんだ。朱衡は根にもつぞ。帷湍や成笙《せいしょう》みたいな単純に頭が固いのと違って、ふかーく根にもってにこにこ笑いながら百年でも二百年でも嫌味《いやみ》を言うんだからな」
「なに、俺は堪《こた》えんから、構わんな。嫌味というのは、相手が気にしなければ張り合いがなくてつまらんものだ」
「朱衡ってかわいそう」
「全部適当に書きかえてやろうと思ったはいいが、なかなか上手《うま》くいかんのだ、これが」
「……おれ、ときどきお前って正真正銘のバカ殿なんじゃないかと思う」
「ほう。ときどきか?」
「うん。常日頃は単なる大ボケ野郎だと思ってるからな」
こいつ、と飛んできた拳《こぶし》を六太はかわす。ひょいと部屋の大卓に飛び乗り、尚隆に背を向けてその上に胡座《あぐら》をかいた。
「──内乱になるか?」
「なるだろうな」
「……たくさん、人が死ぬ」
くつくつと笑う声がした。
「しょせん、国などというものは民の血税を搾《しぼ》り取って成り立っておるのだ。実を言えば国などというものはないほうが民のためだが、そこはそうと分からぬよう上手く立ち回るのが能吏《のうり》の才というものだな」
「呆《あき》れた王だ」
「本当のことだろう。民は王などいなくても立ちゆく。民がいなければ立ちゆかないのは王のほうだ。民が額に汗して収穫したものをかすめ取って、王はそれで食っている。その代わりに民がひとりひとりではできぬことをやってやる」
「……かもな」
「畢竟《ひっきょう》、王は民を搾取《さくしゅ》し、殺すものだ。だから、できるだけ穏便に、最小限を搾取し、殺す。その数が少なければ少ないだけ、賢帝と呼ばれる。だが、決してなくなりはせぬ」
六太は答えない。
「……生き残った諸侯は五、梟王《きょうおう》に屠《ほふ》られて空位のまま州官によって牛耳《ぎゅうじ》られている州が三。使える州侯は靖州《せいしゅう》候だけだ」
言って彼は六太を呼ぶ。
「靖州候に州師をお貸し願う」
「それはお前のもんだ。どうせおれには統帥《とうすい》できねーし」
宰輔《さいほ》は首都のおかれる州を与えられる。雁《えん》においては靖州がそれである。土地と人民があり軍があるが、実際にそれを統帥するのは王、土地も分割され諸官への褒章として割与される。
「……そんなに戦いが怖《こわ》いか?」
尚隆に訊《き》かれて、六太はふと顔を上げた。振り返ると尚隆はにや、と笑う。
「怖ければ隠れていろ。ここまで戦火が及ぶことはあるまいよ」
「そんなんじゃねえ。戦《いくさ》は民にとっちゃ、迷惑きわまりない話だ。それが嫌《いや》なだけだ。おれは民意の具現ってやつだからな」
くつくつと尚隆は笑う。
「麒麟《きりん》は臆病な生き物だというからな」
「慈愛深い生き物だといってくれ」
「殺すまいと無理をして、のちに万殺すよりも、いまここで百殺して終わらせてしまったほうがましだろう」
六太は振り返り、尚隆に指を突きつける。
「そういう話をおれにするな」
「つれないな。せっかく百ですます、と見栄《みえ》を張ったのに」
「百万の間違いじゃないのか?」
六太がねめつけると、尚隆は笑う。
「雁に百万もの民がいるものか」
六太は卓から飛び降りた。
「お前なんか滅帝《めってい》で充分だ」
言い捨てて部屋を出ようとした背に、その声は投げられる。
「任せておけ、と言ったろう」
六太は振り返る。尚隆はいぜんとして机に向かったまま、広い背だけが六太のほうに向けられている。
「嫌なら目を瞑《つむ》って耳を塞《ふさ》いでいろ。これは通らずにはすまない道なのだからな」
六太はしばらくその背を見つめる。やがて改めて踵《きびす》を返した。
「おれは知らない。お前に任せた」