雉門《ちもん》の内で六太は頭に布を巻く。こうして髪を隠しておかないと、さすがに民の目が気になる。麒麟《きりん》の鬣《たてがみ》はどうしたわけかいっさいの染料を受けつけないから、染めることができないのでしかたがない。
着るものはごく普通の身なりに着がえてある。造作もなく更夜《こうや》と連れだって関弓の街に出た。さすがに亦信《えきしん》は背後からついて来ていたけれども。
亦信はもともと成笙《せいしょう》の束ねる軍の士官、成笙が投獄されると成笙を慕《した》う下士官の多くは辞職を願い、自宅に謹慎して成笙が牢《ろう》を出るまで一歩も外に出なかった。その多くは辞職を許されず、さらに何割かは梟王《きょうおう》によって出仕を命じられ、これを断って惨殺されたが、生き残った者がかなりいる。これが大僕《だいぼく》成笙の下で護衛官を努めていた。成笙に心酔してよく武芸を修め、また成笙も目をかけていたほどの連中だから隙《すき》がない。その目をかすめて更夜とふたり、行方《ゆくえ》をくらますのは難行事なので諦《あきら》めるほかなかった。
亦信もまた、油断なく周囲に視線を向けている。麒麟は一国に唯一の神獣《しんじゅう》、まかり間違っても害されることがあってはならない。麒麟《きりん》だということを知れば民は直訴の機会だと殺到してくるだろうが、幸い髪を隠したせいでそれと気づいた者はいないようだった。
関弓は凌雲山《りょううんざん》の麓《ふもと》に扇状に広がる。街の周囲は隔壁によって守られていて、これに十一の門がある。そのひとつから外に出ると、そこには緑の斜面が続いていた。ほど近いところには農地が広がる。少なくとも関弓の周辺は豊かな田園風景をなしている。
更夜はこっち、と笑って小さな丘を越える。せめて街を出ないでいるよう、亦信がとめたけれど、六太は無視して更夜についていった。二十年分背丈の伸びた林の中に分け入ると、更夜がおおい、と鳴く。
「まだ、それ、できるんだな」
六太が感心して言うと、更夜はうなずく。すぐに林の中から、こっち、と鳴き声が聞こえた。
「大きいの、老《ふ》けたか?」
「うん。人間ほどじゃないけどね」
「人よりも長生きなのかな」
「そうじゃないかな」
へえ、と六太はうなずく。使令《しれい》には寿命がなく、人語をあやつり知能も高い。それは使令として契約したせいなのだろうと思っていたが、ひょっとしたら妖魔はそもそもそういう生き物なのかもしれなかった。
声のしたほうに歩いていくと、小さな野原があって、そこに赤い獣が待っていた。
「──天犬《てんけん》!」
叫んだのは亦信だった。亦信は身構え、腰の太刀《たち》に手をかける。六太はあわててそれをとめた。
「よせよ。あいつは大丈夫だから」
「しかし、台輔《たいほ》、あれは」
「確かに妖魔なんだけど。あいつはおとなしいんだ。更夜の言うこと、ちゃんと聞くし」
「まさか」
「不思議だろ? でも、驚いたことにそうなんだ」
六太に言われて、亦信は釈然としない気分で構えを解《と》いた。それでも柄《つか》からは手を放さない。妖魔が人に馴《な》れるなど、聞いたことがない。赤い身体の巨大な狼《おおかみ》、青い翼に黄色い尾、黒い嘴《くちばし》。あれは天犬という妖魔にちがいない。妖獣ならば調教することが可能だが、妖魔は決して飼い馴らすことができないと、亦信はそう聞いていた。
「大丈夫だって。ほら、人がいる」
六太が笑いながらそういうので、改めて目をやると、妖魔の側には数人の人影があった。とっさに妖魔に目を奪われたので、気づかなかったのだ。
「ああ、……はい」
やっと柄《つか》から手を放した亦信を六太は笑って、更夜の顔を見る。
「おおきいの、変わってないな」
うん、とうなずいて、更夜は妖魔に歩み寄った。
「──ほら、六太だよ。覚えているだろう?」
言ってから、妖魔は側の男たちを見渡した。
「──見つかった?」
はい、と男たちは頭を下げたので、更夜の下僕《げぼく》だろう。官ならそれも不思議はないと、六太は男たちを見た。中のひとりがまだ小さな赤ん坊を抱いている。それを更夜が受け取るのを見て、六太はぽかんと口を開けた。
「まさか──それ、更夜の子供か?」
更夜は子供を抱いて笑む。子供は穏やかに眠っている。
「いや。違うよ。これは、探してきたんだ。六太に会うから」
にこりと笑って更夜は子供を妖魔に差し出した。妖魔は鋭利な牙《きば》が並んだ嘴《くちばし》を開ける。ぎょっとした六太が声をかける間もなく、更夜はその嘴の中に子供をそっと置いた。
「──更夜!」
「大丈夫」
更夜は振り返って笑う。
「こいつはこうやって生き物を運んだりするんだから」
六太はほっと息をついた。
「ああ、そうか」
でも、と更夜は笑顔のまま首を傾けた。
「六太や護衛の人が何かすれば、呑《の》みこんでしまうよ」
「──え?」
「使令《しれい》に動かないように伝えて。台輔が何かをなされば、ろくたが子供の頭を喰《く》いちぎる」
亦信が瞬時に動いて六太の前に出た。その背に庇《かば》われながら、六太は呆然としている。
──ろくた、とつぶやいた。
「大きいのにもね、名前をあげたんだ。ろくた、って。──その頃は畏《おそれ》れおおいことだなんて、知らなかったから」
「更夜……」
「子供の命が惜《お》しかったら、おとなしく一緒に来て。惜しいよね? 麒麟《きりん》は慈悲の生き物だもの。血の臭いに耐えられず病《や》んでしまうくらい」
「──更夜、お前」
更夜は亦信を見た。
「お前にも同行してもらう。抵抗はせぬよう。きっと六太がそれを命じるだろうから」
「貴様!」
亦信は柄《つか》に手をかけ抜刀《ばっとう》する。麒麟は確かに争うことができる生き物ではないが、このままみすみす拉致《らち》されるわけにいくものか。たとえ御前を血で汚すことになっても、たとえ罪のない赤子を見捨てることになっても、かけがえのない宰輔《さいほ》を守らなくてはならない。
「亦信、だめだ! ──よせ!!」
六太の叫びには構わず、その腕を掴《つか》む。その場から六太を引きずって逃げ出そうとして振り返り、ぎょっと身を強《こわ》ばらせた。亦信の背後にはいつのまにかひとつの影があったのだ。驚きに気を取られて、背後に忍び寄るものがあったことに気づけなかった。せめて人ならば足音で気づいたろうが、そこにあるのは人ではなかったのだ。
赤いからだ、青い翼、黒い嘴《くちばし》。
更夜が微《かす》かな笑いをもらした。
「妖魔はね、同族を呼ぶことができるんだよ」
亦信が太刀《たち》を振りかぶるより、その妖魔が嘴を突き出すほうが早かった。妖魔はすでに最初から亦信の喉笛《のどぶえ》を狙《ねら》っていたのだ。
「──亦信!」
六太の叫びは悲鳴になった。妖魔の嘴は正確に亦信の喉を貫き、肉を食いちぎった。血糊《ちのり》が飛ぶ。それから身を庇《かばう》ことができたのは、六太の身体を背後から抱きかかえて引き寄せる者があったからだった。
「──台輔、いけません」
女の声がかかった。六太を抱きかかえた腕は白い鱗《うろこ》に覆《おお》われている。白い翼が六太を包んで、顔を覆った。──六太の使令《しれい》だ。
「──更夜ぁっ!」
翼に覆われても、亦信の声にならない悲鳴と血の臭い、忌《い》まわしい音でなにが起こっているのか分かる。どさり、と身体が地に落ちる音、それきり絶えた亦信の息遣い。なおも続く、ものを食《は》む音。それにかぶって、突然のように子供が泣きだす声が響いた。
「──更夜、なぜ……」
「台輔には元州《げんしゅう》までお運《はこ》びいただく」
元州、と六太はつぶやいた。
「使令にはおとなしくしているように命じて、子供の命が惜《お》しかったらね。台輔を害そうなどと思っていない。ただ、わたしと一緒に来て、わたしの主《あるじ》に会ってもらいたいだけ」
「……主」
元州、と尚隆《しょうりゅう》は言わなかったか。
「元州|令尹《れいいん》でいらっしゃる」
「──斡由《あつゆ》か」
六太は顔を覆った翼を押しのける。妖魔の傍《かたわ》らに立って、いまだ笑みを浮かべている更夜を見た。
「卿伯《けいはく》をご存知とは」
「……元州は何を企《たくら》んでいる」
六太の問いに、更夜は答えなかった。ただ、色のない声が周囲の者を促《うなが》しただけだった。台輔、と問う調子の声が背後からかかる。六太は首を横に振った。
「だめだ、沃飛《よくひ》。決して何もするんじゃない」
「けれど」
「放してくれ範」
六太が言うと、身体を抱きかかえていた白い腕がおとなしく解《と》けた。六太は背後を振り返る。心配そうにしている女怪《にょかい》にうなずいてみせた。
「沃飛、退《さが》っていろ」
鱗に覆われ、白い翼と鷲《わし》の下肢をもった女は迷うように六太を見返す。一呼吸して、蛇《へび》の尾を小さく振ってから消え失せた。六太の影の中に戻ったのだ。それを確認して、六太は改めて真っ向から更夜を見る。更夜はにこりと笑んだ。
「さすがは台輔。慈悲深いことでいらっしゃる」