金剛山は世界の中央、黄海《こうかい》を丸く閉じ、雲海《うんかい》を貫く峻峰《しゅんぽう》が連なる。その金剛山の断崖《だんがい》にできた細い横穴が妖魔の巣で、この横穴は巨大な山を下りながらどこまでも続いている。ひょっとしたら黄海にまで通じているのかもしれなかった。
腐臭《ふしゅう》の漂《ただよ》う巣穴の中で、更夜は妖魔の首をのぞきこんだ。
「おれ、更夜だよ。これから、更夜って呼ぶんだよ。呼んでくれないと、おれ、また自分の名前を忘れるかもしれない」
言うと妖魔は、分かったと鳴く。
「大きいのも、名前がほしい?」
妖魔はただ首をかしげる。
「──ろくた、にしよう。そしたらおれも、六太《ろくた》の名前を忘れない」
更夜が出会った敵ではなかった初めての人だった。更夜を追うことも、妖魔を追うこともしなかった。逃げることもせずに側に来て、話をして、更夜に名前をくれた。
更夜は妖魔の首を抱く。
「ろくたも、人間の六太みたいに、たくさんしゃべればいいのに」
すでに寂しい、という言葉が理解できる歳《とし》になっていた。海を越えて陸に行くと街がたくさんあって、どこの街にも人がたくさん住んでいる。更夜のような小さい人や、更夜よりも大きい人がいて、手を繋《つな》いだり抱き上げられたりしていた。それを見るのが好きで、同時にせつない。街を行く親子や駆け回る子供たちを見ていると悲しくてたまらなくなるのに、街を去るとまたその風景が見たくて我慢できなくなる。
養い親の妖魔は、仲間を連れてくることがなかった。ときに別の妖魔に会えば戦ったから、そういう生き物なのかもしれない。だから更夜は妖魔とふたりきりだった。
人恋しさに街へ行けば、妖魔が人を襲う。そうすれば必ずたいそうな騒動になって、更夜も刀や槍《やり》で追いかけられる。妖魔には人を襲わないよう頼んだものの、妖魔は腹が空《す》けば更夜の懇願など無視して人を襲うし、人のほうもたとえ襲わなくても妖魔と更夜を見れば悲鳴をあげて逃げていく。さもなければ武器をふりかざして追ってくるのだ。
更夜は妖魔の顔を間近からのぞきこんだ。何度もろくた、と呼びかける。
「お前、人を襲わないといいのに。そしたら一緒に関弓《かんきゅう》にいける」
ちいさいの、と妖魔は鳴いた。
「だめ。おれは更夜だよ。更夜」
小さいの、と妖魔は繰り返す。外に出ようと誘う声だ。
「ちゃんと呼んでくれないと、おれ、また忘れてしまう。ほんとの名前を忘れたみたいに」
更夜の手を引いて歩いた母親は、確かに何かの名前でもって更夜を呼んでいた。その名がどうしても思い出せない。
「更夜、って呼んでよ」
街を走る子供。子供を呼ぶ声。抱き上げる手、こつんと子供を叱《しかる》る手、どれも更夜にはうらやましい。更夜の覚えている手は更夜を山に捨てた母親の手、海に更夜を連れていった男の硬《かた》い掌《てのひら》だけだ。
どうして更夜にはあの暖かそうな手がなかったのだろう。どうして人は他の子供には優しいのに、更夜を追って酷《ひど》いことをするのだろう。海の向こうにあると聞いた蓬莱《ほうらい》という国。そこへ行けばもう追われることもなくて、きっとあの暖かそうな手が与えられると思ったのに。それともどこか探したならば、荒野にも暖かく住むことのできる街があるだろうか。
「……六太」
更夜の話を聞いてくれた。食べ物をくれ、なでてくれた。名前をくれた。一緒に来いと言ってくれた。もしも一緒についていったなら、もっとたくさんの話ができて、いつも名前を呼んでくれただろうか。街で遊ぶ子供たちみたいに、じゃれかかったりできただろうか。
「……六太といっしょに行けばよかった」
でも、この妖魔は更夜を殺さなかった最初の生き物だから。
更夜は妖魔の首を抱いて赤い毛並みに顔を埋める。
「一緒にいけるとよかったのに」