牀榻《しょうとう》に食事を運んできた更夜《こうや》にそう問われて、六太は軽く肩をすくめる。驪媚《りび》は気を利《き》かせて牀榻の外、屏風《へいふう》の影で子供に乳を与えている。もちろん、更夜からもらった山羊《やぎ》の乳である。
「もしも六太が本当に王を嫌っているんなら、おれが王をなんとかしてあげるよ。おれは六太が好きだから。──王なんか、いなければいい?」
のぞきこまれて、六太は軽く息を呑《の》んだ。
「……別に喧嘩《けんか》をしてるわけでも、仲が悪いわけでもない」
「でも、嫌いなんだろう?」
「困った奴だと思ってるだけ。悪い奴じゃないし、嫌いでもない。尚隆《しょうりゅう》が嫌いなんじゃなくて、おれは王とか将軍とか大名《だいみょう》とか、そういうのが嫌いなだけ」
「どうして?」
「あいつら、ろくなこと、しねぇもん」
ふうん、と更夜はつぶやいて、小刀で団茶《だんちゃ》を削《けず》る。
「……でも同じだと思うけど」
「──え?」
「人はそういう生き物だと思う。群れないと生きていけない。群れるとどんどん大きくなりたがる。同じ国に住むんなら、やっぱり縄張りを争って戦わないわけにはいかない」
「それは、そうだけど」
「どうせ群れるんなら、強い群れにいるほうがいい。強い群れって何だろう? 強い長《おさ》がいるか、数が多くてしかもよくまとまっているか、するとやはりまとめる長がいる。それも強い長が」
「そうかもな……」
「王がいなくなったら、民は勝手に生きるだろうか。おれなら、民が結託して新たな玉座《ぎょくざ》を作るほうに賭《か》けるな」
「更夜も強い長がほしいか?」
いや、と更夜は首を振る。
「おれは人じゃないから。妖魔は群れない。妖魔の子のおれも群れにはむかない。……けれども、人を見ていると、そう思う」
「だったらなぜ、斡由《あつゆ》に仕《つか》える?」
更夜はふと小刀を動かす手をとめた。
「そうだな……違うな。おれは人だから群れに入りたいんだ。でも、半分妖魔だから、うまく入ることができない。斡由はそこを大目に見てくれる。おれが少しばかり変でも、気味が悪くても嫌《いや》がったりしない」
「お前、別に変じゃないぞ」
言うと更夜は笑った。
「そう言ってくれるのは、斡由と六太だけだな。斡由は豪胆《ごうたん》だし、六太は人じゃないから。普通の人は嫌がるんだよ。妖魔が側にいると気味が悪い。おれなんて、妖魔の仲間に見える。……斡由が庇《かば》ってくれなかったら、とっくにろくたと一緒に殺されてた」
ほら、と更夜は袍《ほう》の袖《そで》をめくる。左の腕にひどい疵《きず》が見えた。
「矢で射《い》られた。斡由が治してくれなかつたら、もう少しで腕が落ちるところだったと瘍医《ようい》に言われた」
六太はただ淡々と腕を示す更夜の顔を見た。
「……そうか。──更夜にとって斡由は恩人なんだな」
「うん」
「けど、おれは更夜と尚隆に戦ってほしくない。更夜が斡由を主《あるじ》だというんなら、斡由と尚隆に戦ってほしくはないんだ」
「六太は本当に優しいんだな」
「そんなんじゃない。もっとこれは単純なことだ。おれは尚隆の臣だ。王がどうでも奴自身がどうでもそれからは逃げられない。斡由は逆賊になる。斡由がどう言おうと天命なく国権を狙《ねえ》えば大逆といわれる。斡由にとっても、いったん王に要求を突きつけてしまえば、引き返すことのできない道なんだ。事が起こればどちらかが滅びないわけにはいかない。──更夜と斡由が滅ぶか、おれと尚隆が滅ぶか」
「……逃げれば?」
六太は首を振った。
「それはできない」
「どうして。王は嫌いなんだろう?」
「嫌いだけど。……なあ、更夜。お前、蓬莱《ほうらい》を探してたよな。覚えてるか?」
「覚えてる。虚海《きょかい》の東の果てにある」
「おれ、蓬莱で生まれたんだ」
へえ、と更夜はつぶやいた。その声にかつてのようなそれを切望する色はない。更夜はすでに蓬莱などという幻には興味をなくしているのだと分かる。それでもお義理のように、更夜は問うた。
「……蓬莱ってどんなとこ?」
「戦争ばっかりやってたな。──おれも山に捨てられたんだ、更夜」
更夜は目を見開く。
「……六太も?」
「うん。親父に手を引かれて山に入った。そのままそこに置き去りにされて、死にそうになってたところに迎えが来たんだ。蓬山《ほうざん》から」
六太は山で意識を失う前、獣が近づいてくる足音を聞いたが、それが沃飛《よくひ》の足音だった。
「麒麟《きりん》は本当は蓬山で生まれて、蓬山で育つんだよね?」
「──そう。戻ってしばらくのことは覚えてないな。おれ、まだ人になれない頃だったんだ。ぼんやりしているうちに時間が経《た》ってて、夢から覚めたような感じ」
「麒麟になるんだ、本当に」
「うん。気がついたら変なところで、本当に驚いたな。ばかみたいに贅沢《ぜいたく》な暮らしをさせてもらった。おれの家族はさ、食うために子供を捨てなきゃならなかったんだぜ? それを蓬山じゃ食べ物は枝から取り放題、着物どころか幄《とばり》まで絹だ。ありがたいより腹が立ったな」
「……そう」
六太は視線を落として自分の手を見つめた。
「それで王を選べって言われた」
王を選ばねばならない、と聞いたときの寒気《さむけ》のするような感覚が忘れられない。王とは山名《やまな》や細川《ほそかわ》の連中のようなものだろう、と女仙《にょせん》には理解できないことを言って困らせた。
「冗談じゃない、と思ったな。絶対にやだって」
「麒麟なのに?」
六太はうなずく。麒麟はどんなに小さくても王を選び王を補佐する生き物だから、そのせいだろう、おおむね早熟で年齢からすると格段に分別があるものだ。
「麒麟の例に漏《も》れず、おれも結構お利口さんだったからさ、よけいに嫌《いや》だったな。そのうえ女仙がまた、いろんな嫌なことを教えるわけ。王を選んだら働かなきゃいけないとか、さ」
麒麟には何もないのだ。王を選び、王に仕《つか》え、位にしろ領地にしろ与えられたものまで実際には王のもの。麒麟は天から王を選ぶ権限を与えられているが、王が道を失えば麒麟が病《や》んで報いをうける。死ねば使令《しれい》が死骸を喰《く》いつくす。使令があるのも王を助けるため。畢竟《ひっきょう》、麒麟は丸ごと、その身体も運命も、全部が王のためにしかない。
──何のための生だ、と六太は思った。
君主は民を虐《しいた》げる。そんなことは百も承知だ。虐待の片棒を担ぐのは嫌だ、と六太は切実に思った。我執でもって戦火を呼び入れ、搾《しぼ》り取った血税で当の民の血を流す。君主とは戦うものだ。民はその戦火に投げ込まれる薪《まき》のようなものだ。そんなものに無理矢理荷担させられて、しかも自分のものなど何ひとつない。己《おのれ》自身まで捧げよという。
「冗談じゃない、と思ったな。蓬山に戻ってだいぶして、昇山《しょうざん》の連中が対面のためにやってきたけど、どいつもこいつもろくな奴じゃなかったし、そもそもおれは王を選ぶこと自体が嫌だった。──だから逃げ出したんだ。王を選ばなくていいところに」
更夜は目を見開いた。六太はそれに苦々しく笑う。──笑うしかなかった。
だが、その当時には六太だって必死だったのだ。六太は戦火で全てをなくした。覇を競って争う連中を恨《うら》んだってしかたないじゃないか、と思う。嫌で嫌でたまらなくて、せめて雁《えん》とやらを見れば我ながら少しは麒麟の自覚が芽生えるのじゃないかと思ったが、女仙にねだって連れていってもらった雁は惨憺《さんたん》たるありさまだった。故郷の京よりもなおいっそう荒廃の深い国土。世界は暗澹《あんたん》と垂れこめて見えた。
「荒廃を目《ま》の当《あ》たりにすると、蓬莱が恋しくてならなかった。蓬莱のほうがましだと思ったのかな、それとも単に嫌気《いやけ》がさしたのかな。自分でもよくわからないんだけどさ」
それで六太は己に正直に振る舞った。──蓬山を出奔《しゅっぽん》して蓬莱に戻ったのである。はっきり言って前代未聞、おかげでいまも蓬山は敷居が高い。
「でもさ、蓬莱に帰ったって行くとこもすることもないんだよな、当然だけど」
戻った都は焦土《しょうど》と化し、市街の端から端までが見渡せるというありさまだった。親を探したが見つからなかった。どこか戦火の届かぬ土地へ移ったのかもしれなかったし、やはり生き延びることができなかったのかもしれない。
気の向くまま、西へ向かって放浪した。無為に過ごした三年の月日。帷湍《いたん》は王を責めたが、本当に責任あるのは六太のほうだ。
「ぶらぶらするしかなくて、何となく気の向くほうに旅をして尚隆に会った」
瀬戸内《せとうち》の海沿いの小さな国だった。通り抜けた国々はどこも戦火が飛び火して酷《ひど》いありさまだった。ちょうどいまのように血気にあたって熱に浮かされどおしだった。
「参るよな。何となく歩いてるつもりだったのにさ、それじゃまるで王に引かれたみたいじゃないか。……でもさ、きっと逃げられないんだよ、そんなふうに。いまとなってはおれにも、王を選ぶのが嫌《いや》で逃げ出したのか、王がいるからあんなに蓬莱に帰りたい気がしたのか、どちらなのか分からない」
そう、と更夜の声はいくばくか沈んで聞こえた。
「だからおれは尚隆の臣だ。それはもう諦《あきら》めた。こればっかりはしかたないんだ、本当に。斡由が兵を挙げれば、おれは更夜の敵になる。おれはお前とも、お前の主《あるじ》とも戦いたくない。いまならまだ間に合う。斡由をとめてくれ。
更夜は少しの間、沈黙した。その表情からは、彼が何を考えているのかうかがい知ることはできなかった。ややあって口を開いた更夜は六太を落胆させる。
「……できない」
「──更夜」
「斡由は分かってる。自分がなそうとしていることが何なのか。分かったうえでやるというんだから、おれにはとめる言葉なんかない」
「内乱になる。たくさんの兵が死んで、たくさんの民が巻きこまれる」
そうだね、と目を伏せてつぶやいた更夜の顔には、表情がなかった。