部屋に飛びこんだ下官は、そこに上官の朱衡《しゅこう》のみならず、帷湍《いたん》や成笙《せいしょう》、そのうえに王までがいてぎょっとした。
王より朱衡が賜《たまわ》った後宮《こうきゅう》の一室である。王がいることに──後宮とはもちろん、本来|王后《おうごう》寵妾《ちょうしょう》のためにあるのだ──なんの不思議もないが、朱衡が極秘に執務を行うための部屋だから、まさか当の王がいようとは思わなかった。
朱衡はただ振り向く。
「──見つかった? まさか元州《げんしゅう》か」
「ああ、──はい」
慌《あわ》てて王に向かって平伏した官に、朱衡は手を振る。立て、の意である。
「気にしなくていい。単なる置物だ。それよりも報告しなさい」
「は、はい。──元州|夏官《かかん》射士《しゃし》に駁更夜《ばくこうや》という者が。更夜は名。字《あざな》はございません」
「ご苦労」
朱衡は手を振って退出するよう命じる。ねぎらってやりたいが、いまはその余裕がない。下官がどこかまだ驚いた風情《ふぜい》で出ていくのを見送って、朱衡は卓の上をのぞきこんでいる帷湍と成笙を見る。のんべんだらりと長椅子に横になっている尚隆《しょうりゅう》はこの際無視した。
「やはり元州か。驪媚《りび》とも元三公《げんさんこう》以下の国遣《こっけん》の官とも連絡がとれない。──完全に更夜とやらは斡由《あつゆ》の手先だったわけですね」
帷湍はうなずく。難しい顔で手の中の紙面に目を落とした。
「台輔《たいほ》とどこで知り合ったものか。──成笙、元州師の数は」
「一軍、ただし黒備左軍《こくびさぐん》、一万二千五百」
六太《ろくた》が姿を消してから三日、宰輔《さいほ》誘拐などという手段に出たからには、相手はすでに万全の準備を整えているだろう。
「やっかいだな」
帷湍は紙面をためつすがめつする。王の掌握する王師は現在禁軍一軍、靖州師《せいしゅうし》一軍。それも兵卒の数、七千五百と五千、双方|併《あわ》せても元州師と同数である。本来なら一万二千五百兵の六軍だが、なにしろ雁《えん》は人口自体が少ないのだ。
「はったりだろう、それは」
尚隆はひとりごちたが、あいにく相手をしてくれる者はいなかった。
「かろうじて黄備《こうび》七千五百、民を懲役《ちょうえき》して一万というところだと思うがな……」
王直属の禁軍で言うなら、軍は左右中《さゆうちゅう》の三軍、これは黒備といって各軍に一万二千五百兵を常備するのが通常で、専業の兵卒があたる。それが不可能である場合には、白備《はくび》一万、黄備七千五百とその規模を下げていくのが通例である。宰輔の治める首都州師も通常は黒備、他の八州──これを余州《よしゅう》──の州師は通常、黄備七千五百の常備で、急あって軍を動かすときには残り五千を市民から募《つの》り、さらに火急の時には懲役することになっていた。州師は二軍から四軍で、王師も州師もこれ以上の軍備は太綱《たいこう》によって禁じられている。他国侵略は覿面《てきめん》の罪といって、麒麟《きりん》も王も数日のうちに斃《たお》れるほどの大罪だから、軍を動かすのは内乱に関してのみ、軍備も内憂に対して最小限を定められていた。
州師四軍なら左右中軍に佐軍が加わるが、この佐軍はおおむね青備《せいび》二千五百の常備、元州には本来四軍があったが、現在その右中佐の三軍が欠けて、佐軍一軍しか存在しない。
尚隆は雲海を見やる。常備の軍兵は本来ならば王師六軍に七万五千、各州師に最大四軍三万で、候の反乱など問題ではない。反対に八州が連合すれば最低の場合でも十八万、もしも王が道を失い、玉座《ぎょくざ》にあるを危険とみれば八州師をもって王を討てるというわけだ。──だが、どちらの機能が働くにせよ、いまは民の数が少ない。本来三百万はいていい成人が、即位の当時で大笑いなことにわずかに三十万しかいなかった。国外へ脱出していた民が帰り、子が成人し、増えたといってもたかが倍。王師に一万二千五百いるのが不思議なほどだ。
「黒備左軍はありえない……」
とにくかく、と帷湍が力説しているのが聞こえた。
「間違いなく元州だという証《あかし》がほしい。更夜という名の臣がいるからといって、それだけで王師を動かされてたまるものか」
「しかし、一刻を争いはしませんか? もしも台輔に万一のことがあったら」
「王師の準備を進言する」
成笙が言ったのを聞いて、尚隆は立ち上がった。それを見とがめて、朱衡はどちらへ、と問う。
「──俺は必要ないようだから、寝る」
主上、と溜め息をつく朱衡に笑って、尚隆はさっさと部屋を出る。部屋の戸口で思い出したように足をとめた。
「ああ、──そうだ。勅命《ちょくめい》を出しておけ。六官三公を罷免《ひめん》する」
ぎょっとしたのは朱衡も帷湍も同様である。
「何を考えているんだ、お前は! いま、そんなことをやっている場合か!」
帷湍は血相を変えた。下手《へた》をすれば内乱になりかねないこの時期に、諸官を移動してどうする。新たに人選を行い、官位を与えるだけでもその手間は生半可《なまはんか》のことではない。そのうえに官位ほしさの内輪もめまでまねかねないのだ。
そうたしなめても、尚隆はいっかな聞いたふうがない。
「連中の顔は見飽《みあ》きた。──成笙、冢宰《ちょうさい》に伝えて明日朝議を召集しろ」
「正気か」
言外に非難をこめた成笙の言葉でさえ、聞いているのかいないのか。
「俺が王なんだろう? 俺の勝手にさせてもらう」