帷湍は肩を落とした。
「……お前に何を言っても無駄だと理解した」
「いまごろか?」
帷湍は尚隆の言葉を無視して、背後の朋友《ほうゆう》を振り返った。
「とにかく王師を。かろうじて一万二千五百、これをもって元州に向かうしかないだろう」
帷湍の言葉をあっさり尚隆が遮《さえぎ》った。
「それはできんな」
「──なぜ」
「六太《ろくた》がいない。いちおう靖州《せいしゅう》の州師を動かすには六太に是非《ぜひ》を問わねばならんだろう。しかし、あいにく返事をする者がいない」
「非常時という言葉を知っているか?」
「だが、それが決まりだろう」
「当の台輔《たいほ》を助けなければならないんだぞ!? 捕らえられた台輔にどうやって裁可《さいか》をいただく。お前の頭はどうなっているんだ!?」
「裁可の貰《もら》いようがないな。まあ、州師は諦《あきら》めるのだな」
本気で眩暈《めまい》を感じる帷湍である。
「……分かっているのか、元州には黒備左軍が控えているんだぞ」
「分かっているとも。──ああ、光州《こうしゅう》州侯を更迭《こうてつ》する」
帷湍は目を見開いた。光州は首都州靖州の北西に位置する大州である。その南部はちょうど元州と靖州に挟《はさ》まれている。
「いまがどういう時か分かっているのか、貴様は」
「分かっているつもりだが。──州侯を更迭、光州|令尹《れいいん》を太師に迎え、州宰以下、州六官を内朝六官に据える。勅使《ちょくし》を派遣して関弓《かんきゅう》へ招け。──成笙」
は、と成笙は姿勢を正す。
「勅命をもってお前を左軍将軍に叙す。左軍を率いて元州|頑朴《がんぼく》へ向かい、頑朴城を包囲せよ」
成笙は了解の意で軽く一礼する。帷湍は声を荒げた。
「どういうつもりだ。少しは人の話を聞け!」
ほとんどつかみかかる勢いだが、対する尚隆はそっけない。
「もう決めた。──勅命である」
「成笙を将軍にするのはいい。だが、たかだか七千五百の軍を向けてどうする。州侯城は容易なことでは落ちんぞ。その間の兵糧《ひょうろう》はどうする。どうやって兵を動かすつもりだ」
「訊《き》くが、俺は王ではなかったのか?」
「貴様が王だ。残念ながらな」
「なのに、勅命を下すに、いちいち説明がいるのか」
帷湍は尚隆をにらみつける。
「昏君《こんくん》のきまぐれにつきあって国を傾けるわけにはいかん」
やれやれ、とつぶやいて、尚隆は起きあがり、卓を軽く叩いた。
「まず、これだけは呑《の》みこんでもらう。雁国《えんこく》八州、これは王の臣ではない」
はっと帷湍は息を詰める。たしかに州侯は梟王《きょうおう》の任じたもの、だが、そう言い切るとは。
「関弓を空《あ》けるわけにはゆかぬ。王師をことごとく出せば、必ず足下をすくいにかかる者が出る」
「しかし」
「まあ、聞け。元州は六太を押さえている。あれを盾《たて》にこちらを恐喝《きょうかつ》する気だ。ならば元州はわざわざ労を割《さ》いて関弓まで兵を向ける必要などない。実際、連中は関弓から大量の武器を仕込んだようだが、馬や車を仕込んだという話を聞かぬ。連中は関弓に攻めのぼってくる気がないのだ。少なくとも、近々のことではない。──まず、これがひとつ」
とりあえず、帷湍はうなずく。
「しかしながら、こちらも動かずに元州を待ちかまえるわけにはいかん。六太がいるからな。あちらが攻めてこないなら、こちらから攻めないわけにはいかぬ。元州左軍一万二千五百、これに対して王師が同じく一万二千五百。地の利を考えるまでもなく、こちらが不利だ。どうあっても全軍を出す必要がある。
「だから、そう言っている」
「全軍をもって頑朴を包囲し、州侯城を攻める。おそろく元州は守城戦《しゅじょうせん》の構え。事態は膠着《こうちゃく》する。一朝一夕《いっちょういっせき》に片づけるわけにはいかんだろう。──ここまでは誰にでも読める。だとしたら、元州もこれくらいのことは読んでいる。すると、次に元州はどういう手に出るか」
「──次」
座を見渡した尚隆の視線に応えて、朱衡が口を開いた。
「関弓に近い州侯に働きかけて、関弓を突かせますね。──すでに内々に取引が完了していると考えたほうがよろしいでしょう」
「そのとおりだ。では、断じて関弓を裸にするわけにはいかん。州師は残し、元州|謀反《むほん》の報を流し、付近から兵卒を募《つの》る」
「ですが、それで保《も》つのですか」
「保たせろ。──剣も槍《やり》も使えなくていい。とにかく大量の民を集めて関弓に置く。周辺州侯の軍で一万を超えるものはないぞ。そこに三万のとりあえず武装した民がいれば、まず他人の地位のために博打《ばくち》を打つ者はいない」
帷湍は憮然《ぶぜん》と吐き捨てた。
「いたらどうする」
「運がなかったと諦《あきら》めるのだな」
「あのな……」
「勘違いするな。俺たちには後がないのだ。六太を殺されれば俺も玉座《ぎょくざ》を失う。俺となれあっていたお前たちも、まず間違いなく官位を失うのだからな」
とっさに言葉に詰まった帷湍の横で、朱衡はつぶやく。
「けれど、どれだけの民が動員できますか……」
「嘘《うそ》八百を並べてもかき集めろ」
「嘘八百──」
「台輔は十三、いっそのこと十ぐらいに割り引いておけ。幼い台輔がどれだけ情け深いか、逸話を捏造《ねつぞう》するのだな。使えるだけの連中を使って、噂《うわさ》をばらまけ。元州に捕らえられておいたわしい、おかわいそうにと泣いてまわるぐらいのことはしろ。ついでに王がどれほど賢帝で、どほどの逸材か、ばらまけ」
これにはその場にいた三者が同時に呆《あき》れ果てた顔をした。尚隆はその顔を苦笑まじりに見渡す。
「……新王|登極《とうきょく》は国民の悲願だったのだろう。その新王の座が危うい。また国は荒れるぞ。ようやく緑になった山野をまた妖魔の巣くう荒土にしたいか。新王が賢帝ならばいい、賢帝のもとで国の復興なればいいと誰しも思っているだろう。誰ひとり新王が愚帝であってほしいなどと思っていないはずだ。嘘《うそ》でもいいから賢帝だと信じたい。──そこにつけこむ」
「お前、王より詐欺師《さぎし》のほうが向いてないか?」
「民意を操作するしかないのだ。関弓に集まる兵は多ければ多いほど安全が約束される。どんな赤面ものの嘘だろうと言ってのけろ」
それにしても、とつぶやく帷湍の脇《わき》で、朱衡は口を開いた。
「しかし、肝心の元州攻略はどうなさいます?」
「成笙に任す。なんとしても禁軍七千五百で包囲せよ」
「けれど、黒備左軍が」
尚隆は薄く笑った。
「ないな。懲役した市民、州下からかき集めた浮民で併《あわ》せて一万がやっとだ」
「そういう勝手な確約を」
「嘘ではないぞ。ちなみに俺が両司馬《りょうしば》だそうだ。藁《わら》を斬《き》ってみせたら、あっさり長をくれた。その程度の軍だな」
朱衡は成笙と顔を見合わせる。帷湍が卓ごし、身を乗り出すようにして尚隆の顔をのぞきこんだ。
「……ちょっと待て。お前が? 元州軍の? 両司馬といえば両長じゃないか」
一軍は五|師《し》五|旅《りょ》五|卒《そつ》四|両《りょう》五|伍《ご》で編成される。
一師は二千五百兵、一伍は五兵の集まりである。
「頑朴で遊んでいたら州師に入らんかと誘われた。王師の兵卒を五十斬れば卒長《そつちょう》、二百で旅帥《りょすい》にしてくれるらしい。ちなみに討伐軍《とうばつぐん》将軍の首を取れば、のちのち禁軍左将軍、王の首で大司馬《だいしば》をくれるそうだが、さすがに大司馬は無理だろうな」
帷湍は天を仰ぐ。
「呆《あき》れ果てて涙が出てくる……」
朱衡もまた深い溜め息を落とした。
「間諜《かんちょう》のまねごとなど、なさらずともよいと申しあげましたのに」
「役に立っているだろう? 大目に見ろ」
「──けれど、攻城戦《こうじょうせん》となると、一朝一夕《いっちょういっせき》には片がつきません。その間に台輔にもしものことが」
「ないように祈っているのだな」
「しかし、台輔にもしものことがあれば、禍《わざわい》は主上に及びます。せめて──」
「朱衡」
尚隆は臣の顔を真っ向から見る。
「では、六太の命を惜《お》しんで、斡由の要求を呑《の》むか?」
朱衡は言葉に窮した。
「この国は麒麟《きりん》が王を選ぶ、その道理で成り立っておるのだろうが。奸臣《かんしん》が道理を傾ければ、たとえ一例でも国が傾く。悪《あ》しき前例は作らぬことだ。違うか」
「ですが──」
「国を選ぶか、王を選ぶか」
朱衡には言葉が出ない。斡由が六太を殺せば、目の前の王も死ぬ。そういう決まりなのだから。戦いが万が一、王に有利に進めば、焦《あせ》った斡由は麒麟を殺しかねない。目の前の主《あるじ》のためだけを思うなら斡由の要求を呑《の》むよう言ってやりたいところだが、それはできない。
「斡由に屈すれば、国は拠《よ》って立つ場所を失うぞ。それでもいいか」
言葉に窮した朱衡を見やって、尚隆は苦笑した。
「俺に運があれば、なんとか切り抜けられるだろう」