「……雨が来る。結局|漉水《ろくすい》、間に合いそうにないな」
これから長い戦いがあり、その決着がつく前に雨期が来る。元州などの黒海《こっかい》沿岸では雨期といっても大した降雨ではないが、上流で降った豪雨の水が押し寄せてくるのだ。
「しかたないよ」
つぶやいて更夜《こうや》もまた手摺《てすり》にもたれるようにして眼下を眺めた。蛇行《だこう》する漉水の川面に鈍《にぶ》く光が反射していた。流域の人々にとって漉水は常に脅威だった。いつ溢《あふ》れるか分からない、その大河。昨年は大丈夫だった。今年も保《も》つかもしれない。しかし、来年は。溢れぬ幸運な年の分だけ、人々の不安は膨張する。氾濫《はんらん》の水より先に、人々の恐怖が元州を押し流した。
「どうせなら、もっと早くに事を起こせばよかったのに」
六太がぽつりと言って、更夜は苦笑した。
「いつでも同じだ。戦いは氾濫よりも面倒だから」
「そりゃそーだ」
実際、と更夜は下界から目をそらして六太を見る。
「卿伯《けいはく》はもっと早くに兵を挙《あ》げたかったようだけどね。でも、ただ関弓《かんきゅう》に攻めのぼっても勝ち目はないだろ? どうせなら王師を引き寄せないと。その方法が見つからないとおっしゃったから、おれが六太のことを言ったんだ。台輔《たいほ》を知っているって。そしたらお連れするようにって。──怒る?」
たぶん、六太は忘れているだろうと思った。それでも食いさがれば会うことぐらいはできるだろう。運が良ければ頑朴に招くことができるかもしれない。──もっとも、護衛は厳重だろうから、運が悪ければ二度と頑朴へは戻れないだろうが。
──そう言った更夜に斡由《あつゆ》が策を授けてくれた。たとえ道に外《はず》れても射士《しゃし》を失うよりは良い、とそう言って。
いんや、と六太は首を振った。
「使えるものは使うのが世のならいってもんだろ。──なあ、本当に牢《ろう》に帰らなくてもいいのか?」
「牢の中ばかりじゃ息が詰まるだろ? それで、六太はとてもおとなしい虜囚《りょしゅう》だから、好きにさせていいって卿伯が」
「へえ、親切なのな」
うん、と更夜はこのときばかりは嬉《うれ》しげに笑う。
「六太が真面目《まじめ》に相手をするんで、とても感謝していたよ、卿伯は。そのお礼なんじゃないのかな。……でも、城から一歩でも出れば糸が切れるからね」
六太は目を上げた。視線を上向けても額にとめられた石は見えない。
「分かってる」
更夜はくすりと笑った。
「麒麟《きりん》は不便な生き物だね。たかだかふたり人質《ひとじち》がいるだけで、もう身動きできない」
「ふたりどころじゃないだろ?」
まあね、と更夜は笑う。
「驪媚《りび》の部下やその他も捕らえてあるよ。六太が何かすればみんな死ぬことになるね」
「せめてそいつら、解放しないか?」
「すると思う?」
「人質ならひとりいれば十分だろ。驪媚だけはしかたないとしよう。けど、他の連中とあの赤ん坊、解放するわけにはいかないのか? それでもおれは逃げ出したりなんかしないぜ」
「卿伯に申しあげてみてもいいけど。でも、だめだろうね。内実に明るい敵を放すほど卿伯はお人好しじゃないよ」
「……だろうなぁ」
深い溜め息を落としたところで、斡由が露台にやってきた。彼は六太を見て深く会釈し、更夜に笑む。
「──ここにいたか。どうやら王師が動くようだぞ。思ったより早かったな」
六太は目を見開いて振り返った。
「……軍が来るのか」
「そのようでございます、台輔。禁軍のみ、七千と五百。近日中に関弓を出ますでしょう」
「……勝てるのか?」
「どちらがでしょうか?」
斡由は笑う。六太にはなぜこの男が笑えるのか、理解できない。
「王師は勝てるのか、というお尋ねでしたら、そう簡単には勝たせはしません、と申しあげましょう。我々が勝てるのかというお尋ねでしたら、最善をつくします、と」
なぜ、と六太はつぶやいた。
「なぜ、お前も尚隆《しょうりゅう》も戦いたがる。いたずらに乱を呼びこもうとするんだ。いまお前が軽く言った七千五百の意味を分かっているのか? それは物の数じゃない。命の数だぞ。家族もある、思いもあるひとりひとりの人間の集まりなのだと分かっているか?」
斡由はやんわりと笑う。
「存じあげております。なれど台輔はいったん漉水が溢《あふ》れればどれだけの数の民が死ぬかご存じでしょうか? 明日万の民を死なせないために、今日千殺す必要があるのでしたら、わたしは後者を選びます」
「お前たちは──斡由も尚隆も同じことを言う……」
六太、と更夜が肩に手を置いた。
「しかたがないんだ。もう動き出してしまったんだから。これをとめる方法はもうひとつしかない。卿伯が投降し謝罪するしか。──六太は卿伯に死ねというのか?」
「更夜……それを言うのは卑怯《ひきょう》だ」
「だけど、本当のことだ。卿伯に兵を引けというのは、死ねということも同じだ。ここで千の兵卒の命が助かるなら、卿伯が死んでも構わないのか? だったらそれは卿伯がおっしゃっていることと、なんの違いもありはしない」
六太は背中を向ける。手摺《てすり》に腕をのせて顔を埋めた。
「……お前たちには分からない。血の臭いをかいで平然としていられる奴らには」
更夜がその肩に手をのせてきた。
「王が卿伯の望みを叶《かな》えてくださればいいんだ。卿伯はたとえ上帝位にお就《つ》きになっても、権を振りかざして王を処罰なさったりはしない」
「勝手を言う……」
「だってね、六太が元州に捕らわれた瞬間に、それ以外に戦乱を避ける方法なんてなくなったんだよ」
はたと六太は顔を上げた。振り返った更夜の顔は哀れむ表情をしている。
「戦いが嫌《いや》なのだったら、六太は関弓でおれを使令《しれい》に殺させるべきだったんだ。子供を見捨てても逃げるべきだった。六太を捕らえてしまったら、卿伯にだって引き返す道などありはしないんだから」
六太は俯《うつむ》く。それは事実だ。──しかし、目の前の子供をみすみす死なせることはできなかった。
「麒麟《きりん》は可哀想だね。そう何もかも哀れんでいては身が保《も》たないだろう? それで王の側近くにあって宰輔《さいほ》を努めるのは苦しいだろうね。斡由に任せてしまえば楽になるよ」
ねえ、と更夜は六太の手を取る。
「おれだって戦いなんかなければいいと思う。王が卿伯に位を譲《ゆず》ってくれるといい。六太、そう文《ふみ》を書かない?」
「書いてもいいけど、尚隆は従わないぜ」
「──そう?」
「尚隆は玉座《ぎょくざ》を手離したりはしない。あいつは本当に国がほしかったんだから。やっと手に入れたものを手離すほど無欲な奴じゃない」
六太は斡由を見た。
「尚隆なら、自分ひとりになっても戦おうとするぞ。お前と尚隆と、どちらかが折れねばならないんだ。尚隆は死ぬまで折れたりしない」
斡由は陰のある笑みを浮かべた。
「──わたしもです、台輔」
そうか、と斡由は下界を振り返った。
「王は国をお望みか。国主になることを望んでおられたか」
「お前もそうじゃないのか」
「わたしは権に興味がありません。実際、梟王《きょうおう》亡きあとも昇山《しょうざん》いたしませんでした。諸官は推挙してくれたけれども、わたしは玉座に興味がなかった」
「では、なぜ」
「民が潤《うるお》えばいいのです。だが、その民を庇護《ひご》してくれるはずの王は民のことなどお考えでない。雁《えん》の国民がどれほど新王を待ち望んでいたか、台輔はご存じでしょうか」
「それは──」
「新王が践祚《せんそ》なされば、きっと国は変わると思ったのに、その新王は権を己《おのれ》ひとりに限って、そのあげくに政務を軽んじられる。あれほど待った新王でさえこうですか。ならば──誰かが民のために立ち上がらねばならない」
「それがお前か?」
皮肉をこめて言ったが、斡由は軽く首を振った。
「真実国を治めるにふさわしい方がおられれば、いくらでもお譲りする。わたしは権には興味がないと申しましたでしょう」
言って斡由は露台の縁《ふち》に歩み寄った。改めて下界を見渡す。
「なるほど王は、ただ玉座に座ってみたかっただけなのだな……。道理で政務を蔑《ないがし》ろにされるはずだ」
「斡由、そういう意味じゃない」
斡由はひとつ首を振って六太に向き直る。軽く頭を下げた。
「台輔にはさぞやのお苦しみと推察申しあげます。お詫《わ》びをする言葉もございませんが、もしもわたしに運があり、無事王師を打ち破ることができますれば、かならずこの不徳を仁治《じんじ》で補わせていただきます」