「戦いになるってのは、本当なのか」
「関弓にも元州《げんしゅう》が攻めてくるの」
亡国の危機に瀕《ひん》したのはわずか二十年前のことでしかない。誰もがその当時の悲惨な雁《えん》を知っている。まだまだ他国に比べ、雁は格段に貧しいが、それでも誰もが昨日より今日と、豊かになっていく国土を見ている。やっとのことで瓦礫《がれき》を拾い終え、鍬《くわ》を入れてもかつんと石を噛《か》む音を聞かなくなった。耕した下から燃え残りや骨が出てくることも絶えた。──それがまた戦火によって焼かれる。
「王はどうなるんだ」
「まさかもうお隠れになったの」
「台輔《たいほ》はご無事でいらっしゃるのか」
深夜まで群がる市民への対応に追われ、疲れ果てた身体を無理にも起こして国府の官は大扉を開ける。軍を司る夏官《かかん》、そのうち軍兵を管理する司右府《しゆうふ》にもまた、疲れ果てた諸官が足を引きずって出仕した。中でも一番に国府へ下り、その大扉を押し開けたのは司右の下官、名を温恵《おんけい》という。
温恵は昨日の騒ぎを辟易《へきえき》した気分で思い出しながら、今日も繰り返されるだろう対応にすでにうんざりしていた。市民が押し寄せてきては、勝てるのか、と訊《き》く。そんなことを訊きたいのは温恵のほうだ。王がこの乱で斃《たお》れればどうなるか。かろうじて梟王《きょうおう》の時代を生き延び、ようやく官を得て、平穏な暮らしが始まったというのに。
陰鬱《いんうつ》な気分もあいまって、いつもより数段重い気がする閂《かんぬき》を外《はず》し、司右府の大扉を押し開けてきた人々を温恵は軽く手を挙《あ》げて制す。口々に不安を訴えるのを、静まるように示した。
「司右府はいま、大変なときなんだ。お前たちの不安は分かるが、事情が訊きたければ他に行ってくれ。我々にはお前たちの相手をしてやる暇《ひま》がない」
でも、と誰かが声をあげる。
「本当に戦いになるのか。それだけでも聞かせてくれ」
「そんなことは元州に聞くのだな。元州があえて叛旗《はんき》を翻《ひるがえ》すというなら、王師はこれを迎え討つしかない」
「台輔はご無事なのか。──王は」
知るものか、と温恵は心中に吐き捨て、代わりにうなずいてみせる。
「王は大禍《たいか》なくお過ごしだ。お前たちにも苦難が降りかかるのではないかと、たいそう心配しておられる。台輔がどうしておられるかは、我々にも分からない。ご無事であることを切に願っている」
「戦わずにすむ方策はないのか」
行ったのは老爺《ろうや》だった。
「あれば教えてもらいたい」
「また国土を戦場にするのか。やっと暮らしが上向いてきたのだぞ。それをまた兵馬に踏みにじられれば、今度こそ本当に国が滅ぶ。国府はそれが分からないのか」
温恵は憮然《ぶぜん》とその老爺を見た。
「だから、戦わずにすむ方法があれば、それを言え。主上とて、戦乱を望んでおられるわけではない。非は元州にある」
「しかし」
さらに口々に声が上がるのを、温恵は手を振って制した。
「とにかく、他へ行ってくれ。夏官はいま、お前たちの相手をしている場合ではない」
扉前に群れた人々は互いに顔を見合わせる。幾人かが別の官府をめざして踵《きびす》を返した中で、ひとり前に進み出る女があった。
「王師は勝てるの」
彼女は胸に乳飲み子を抱いたまま、温恵を真っ向から見る。
「勝てるよう、努力する」
「けれど元州は台輔を攫《さら》っていったのでしょう。もしも元州が台輔を殺せば、王も斃《たお》れるということではないの」
「そういうことになる」
「だったら努力する、なんて、そんなことでいいの? 一刻も早く元州へ軍をさしむけて元州を倒し、台輔を宮城《きゅうじょう》に連れて帰らねばならないのではないの?」
温恵は憮然《ぶぜん》とした。
「そのとおりだ。そのために国府諸官は努力している」
「そもそも戦うべきではない!」
声をあげた老爺《ろうや》を、女はきりと睨《にら》んだ。
「戦わずにどうするの? 王にこのまま斃れろと言うの。王がいなければ国土は荒廃する。その荒廃を誰もが見てきたはずじゃないの」
「戦えばさらに荒廃があるだけだ」
女はちらりと口元を歪《ゆが》め、揶揄《やゆ》に似た色の笑みを浮かべた。
「あたしは知っているわよ」
何をだ、というように腰を引いた老爺を女は冷たく見やる。ついでその場の全員、老若男女《ろうにゃくなんにょ》を見渡した。
「この中の何人か、──いいえ、この街の何人かが、かつて王のいないこの国で子供を殺したのよ」
女は言って腕の中で眠っている子供をさしあげる。
「ご覧。──この子はあたしの子よ。里木《りぼく》に願ってやっと天から下された。みんなそうやって子供を願ってきたんだわ。でも、その子を殺した人たちがいたことをあたしは知ってる。あたしの妹もそうやって井戸に投げこまれたんだから」
しん、とその場が静まった。
「夜中に大人《おとな》がやってきて、あたしの隣で寝ている妹を攫っていった。そうして井戸に投げ捨てた。それをやった大人が、いまものうのうと暮らしているのをあたしは知ってる。あれは全部、国が荒れていたせいだって、口をぬぐって何喰わぬ顔で暮らしているのをね」
温恵は女の背中を軽く叩いた。やめろ、と言ったが、女は冷え冷えとした視線を返した。
「なかったふりをしても、犯した罪は消えない。少なくともあたしは覚えてる。死ぬまで絶対、妹が投げこまれた水音を忘れないわ。──同じことが起こるのよ。このまま戦乱になって王が倒れれば、あたしのこの子を誰かが井戸に投げこむんだわ。それがしかたないで、まかり通ってしまう荒廃がまたやってくる。それでもいいの?」
一同を見渡して、女は温恵を昂然《こうぜん》と見る。
「そこをどいてあたしを通して。あたしはこの連中みたいに、くだらない弱音《よわね》であんたたちを悩ませるために来たんじゃない」
温恵は狼狽《ろうばい》して女を見返した。それに女は笑ってみせる。
「あたしは戦うために来た。あたしたちに富を恵んでくださる王を守る。あたしはこの子を死なせたくない。殺すことをしかたないと言って諦《あきら》めてしまうような、そんな世に二度と来てほしくないの。そのためには玉座《ぎょくざ》に天命ある王がいなきゃならない。王が将来、この子を豊かに暮らせるようにしてくれるなら、いまあたしが王のために死んであげてもいい」
「しかし」
「兵が男でなければならない、という法などない。ひとりでも多くの兵が必要なのじゃないの? ──あたしは頑朴《がんぼく》へ行く。そのために来たの」
激しく瞬《まばた》く温恵の前に、おれも、と進み出る若者があった。
「おれも、そのために来たんです。……何もできないかもしれないけど、おれは意気地《いくじ》なしだって言われ続けてきたから。だけど、このまま王が斃《たお》れてしまっては本当に雁は滅んでしまう」
女はにっこりとその若者を振り返った。
「あんた、少しも意気地なしじゃないわ」
「本当にそうなんです。喧嘩《けんか》だって勝ったことなんてないし。でもおれだって荷車ぐらい押せる。そのくらいの役になら、たてると思うんです。──おれの両親はずっとおれと一緒に死のうと思っていた、って。新王が践祚《せんそ》したのを聞いて、これできっと全部よくなるって、そう思って思いとどまったって言ってました。王は俺たちの希望です。玉座に王がいらっしゃるから、おれたちはいい暮らしをするためにがんばろう、って思える。だから、おれにもお助けできることがあるのだったら、働かせてもらおうと思ってきました」
人の群れの中で呵々《かか》と笑った者があった。頭髪の後退した男が赤ら顔をさらに紅潮させて天を仰《あお》いで笑っている。
「見どころのある者がいるじゃねぇか。おれが一番でなかったのは口惜《くちお》しいが、こういうことなら負けても悪い気分じゃねえ」
笑って男は振り返る。困惑したように、大扉の前に立った女と若者を見ている人々に手を振った。
「さあ、心配事の相談なら余所《よそ》へ行きな。ここは兵役に志願しようっていう奇特な人間の来るところだ。それともお前たち、みんな頑朴へ行くのかい」
及び腰になった人々がひとりふたりと司右府の前を離れていく。中にひとり女があって、この女もまた逃げ出すように人の輪を離れていった。女は家に帰って、店の奥で指《さ》し物《もの》に鉋《かんな》をかけている夫に、司右府での顛末《てんまつ》を語った。
「信じられない。あれほど戦乱で苦しい思いをしておいて、また戦おうだなんて」
夫はちらりと目線を向けただけで、再び黙々と鉋《かんな》を使っている。
「そもそも王さまってのは、二度と戦乱だとかそういうことが起こらないようにしてくれるものじゃないの? それを謀反《むほん》だなんて。王が不甲斐《ふがい》ないからに決まってるのに」
言って女は身を震わせる。
「ああ、嫌《いや》だ。また血の臭いを嗅《か》ぐんだろうかね。ひもじい思いをして、子供にもひもじい思いをさせて。関弓も戦場になるんだろうか。もうたくさんだ、戦いなんて」
夫は突然鉋を置いた。置いてふらりと立ち上がる。
「どうしたの、急に」
女は問うたが、答えを期待したわけではない。寡黙《かもく》な夫だ。ほとんど最低限、必要でしかたのないときにしか喋《しゃべ》らない。だが、この日は珍しいことに答えがあった。
「──国府へ行ってくる」
「国府、って」
「頑朴へ行く」
あんた、と女は目を見開いた。
「冗談じゃない。頑朴って、そんな」
夫はほとんど初めて、彼女に慈愛のこもった目線を向けた。
「おれの両親も兄弟も飢《う》えて死んだ。──おれはお前や子供たちに、そんなふうになってほしくない」
「あんた──」
「王を失えば同じことが起こる。他の誰のためでも行かんよ、おれは。だが、お前たちのためだからな」
──空けて翌日。司右府の大扉の前には長い列ができた。
自ら兵役を志願する人々の列である。