帷湍《いたん》は紙面の綴《つづり》りを卓の上に置いた。
「新王の大事とあれば、と関弓《かんきゅう》の守りに志願したものが千、頑朴《がんぼく》へ行くというものが三百。──たった三日でだぞ」
へえ、と朱衡《しゅこう》は綴りを手に取った。
「加えて靖州《せいしゅう》外からも協力の申し出がある。ずいぶんと遠方の里《まち》でも関弓へ行くという民が里府に集まって、官は悲鳴を上げている」
「噂《うわさ》の効果でしょうか」
「三日でどれだけ広がったと思う? まさかとうてい擁州《ようしゅう》の果てまでは届かんだろう」
「来るのですか、そんなところからも」
「来ると言っている者がいるそうだぞ。とうてい出征には間に合わんだろうが」
朱衡はその綴《つづ》りを軽くおしいただく。
「なんてありがたい。……新王に対する期待がそれほど大きいのですね」
「本人を知らんというのは幸せなことだな。これを聞けば主上も態度を改めるかもしれん」
それはどうでしょう、と朱衡は苦笑する。
「二州から州師を貸してもいいとの申し出があったが、これは頼りにできんだろう。関弓に入れていきなり襲われてはたまらんからな」
「物資と兵卒だけを借り受けよう」
成笙《せいしょう》が口をはさんだ。
「借りた兵卒を関弓城の外に配置する。──光州《こうしゅう》はどうなってる」
「州侯以下、六官がすでに州城を発《た》っていますが。太師《たいし》を次の州侯に据えるそうで、すでに関弓を発っています」
これは自分の懐《ふところ》にしか興味のない男、かすめ取った公金で自分を肥《こ》え太らせることに忙しく、謀反《むほん》などの大悪には縁がない。
「主上に光州の州師をいったん全員解任し、物資を押収するように進言しよう。そのうえで遠征の途中に兵を募《つの》り、禁軍に組み入れる」
しかし、と帷湍が言う。
「頑朴へ向かう兵は実際に戦ってもらわねばならない。たとえ職にあぶれた光州の兵卒を拾い上げるにしても、急拵《きゅうごしら》えの軍で秩序が成り立つのか。もしもその中から王師に武器を向ける者があったら」
「新王への期待に賭《か》ける」
朱衡は天を仰いだ。
「本当に博打《ばくち》のような勅伐《ちょくばつ》ですねぇ」
まったくだ、と誰しも息をついたとき、部屋の外から声がかかった。
「あの──失礼してもよろしいでしょうか」
おずおずと屏風《へいふう》の陰から顔を出したのは毛旋《もうせん》だった。成笙はうなずいて、入室するように命じる。毛旋はなにやら迷うようにしてから、軽く会釈をして入ってきた。
「どうした。火急の用か」
火急でなければ後にせよ、とそういうつもりだったのだが。
「ええ。──火急と言いますか。その」
「どうした」
毛旋は心底困ったようにして、何度も床と成笙を見比べる。
「その……無理にとは言わないのですけど、おれも閣議に混ぜていただきたいので……」
なんだ、と帷湍が眉《まゆ》を上げた。
「そりゃあ、べつに構わないが。そういえば毛旋はかつて成笙の師帥だったな」
言って帷湍は成笙を見た。
「どうする。小臣《しょうしん》に下がらせてある部下を軍に呼びもどすか? 毛旋もあの浮かれ者の護衛より成笙に随従したいだろう」
そのつもりだ、と成笙はうなずく。
「毛旋にはいま一度師帥に──」
「それはできませんので」
毛旋は上目遣《うわめづか》いに成笙の顔色をうかがうようにした。
「できぬとは、なぜ」
「あの……おれは……いや、わたしは、畏《おそ》れおおくも……その」
毛旋は懐《ふところ》から一通の書面を出して深々と頭を下げた。
「ここに勅命《ちょくめい》が。──すみません! おれ、大司馬《だいしば》を拝命してしまいました!」
帷湍はもちろん、成笙も朱衡も唖然《あぜん》とした。大司馬は六官の一、軍を管理する夏官長《かかんちょう》である。位で言えば卿伯《けいはく》、卿である将軍を賜《たまわ》った成笙の上司と言うことになってしまう。
「──なんだと?」
「す、すみません! でもあの、この乱が終わるまでの間、と但《ただ》し書《が》きがついてますから。勘弁してくださいっ!」
朱衡は眉をひそめた。
「毛旋と話をしても埒《らち》があかない。主上はどちらです?」
「あの、おられません」
毛旋は身をすくめる。
「いない?」
「はい。大僕《だいぼく》──いや、将軍に伝言が」
「──なんだ」
「首を取られないよう気をつけろ、禁軍将軍は悪くない、と」
帷湍は一瞬ぽかんとし、それから顔を覆《おお》った。
「あの莫迦《ばか》……」
「信じられない」
心底呆然としているのは朱衡である。帷湍は拳《こぶし》で卓を叩いた。
「どこの世界に逆賊の軍に加わる王がいるんだ!」
「す、すみませんっ!」
成笙は憮然《ぶぜん》とつぶやく。
「ひょっとしたら、内側から何かする気じゃないのか」
「……何か」
「おれは主上に頑朴を包囲せよと命じられた。落とせ、とは命じられていない。普通包囲しただけでは戦いは終わらんだろう」
これについては、と毛旋は勅命《ちょくめい》とはべつに書状を取り出した。
「これを将軍にと」
成笙はそれを受け取り、その場で開いて目を通す。のぞきこむ帷湍にそれを回すと、読み終えて帷湍がひとつ溜め息をついた。
「何を考えているんだ、あいつは」
「どうしました」
のぞきこむようにした朱衡に、帷湍は書状を差し出した。
「行軍の中途で役夫《えきふ》を募《つの》り、頑朴付近の漉水《ろくすい》に堤《つつみ》を作れ、とある」
「少しでも民意を引きつけようということでしょうか」
帷湍は投げ出すように椅子に腰を下ろした。
「どうしてあいつは、いままでさぼっていたツケを、この非常時に払おうとするんだ!」
「何か考えがあるのだろう。そうでなくてはいかな主上といえど、頑朴に出向いたりはすまい」
「呆《あき》れ果てて言葉もでんぞ。……もしものことがあったらどうする気だ。万が一にも戦《いくさ》のどさくさで殺されるようなことがあれば。──あいつはそれを分かってるのか」
「それは承知のうえだろう」
成笙は苦笑した。
「台輔《たいほ》を人質《ひとじち》にとられては、そもそも分《ぶ》がない。玄英宮《げんえいきゅう》に閉じこもってどんなに命を惜《お》しんだところで、台輔を害されてしまえばそれまでだからな」
「それはそうだが」
「これは主上にとって、そもそも生きるか死ぬかの戦いなのだ」