斡由《あつゆ》は雲海の上から下界を見やった。背後に控えていた更夜《こうや》もまた、ついつられて同じように下界をのぞいた。頑朴《がんぼく》をとりまくように蛇行《だこう》して流れる漉水《ろくすい》、その対岸、沢を隔《へだ》てた彼方《かなた》の山に王師の旗が見える。
「いよいよ始まるな」
台輔《たいほ》捕虜《ほりょ》からふた月。王師は驚くべき速さで軍を整え、頑朴に到着した。──あの川を越えれば戦端が開かれる。
「──畏《おそ》れながら、卿伯《けいはく》」
声をかけてきたのは州宰《しゅうさい》の白沢《はくたく》だった。背後で平伏した白沢は苦渋に満ちた顔をしている。
「どうした?」
「城下の者が動揺しております。卿伯は簒奪《さんだつ》を企《たくら》む逆賊だと」
斡由は笑った。
「王を廃して上帝になろうというのだ。これが逆賊でなくてなんだ」
「兵卒までが動揺し、軍を脱走する者も出る始末でございます。果たしてあれで士気があがりましょうか」
斡由は白沢に歩み寄る。間近から白沢を見下ろした。
「大逆であることなど承知だったろう。臆したか、白沢」
「兵卒にはそうは参りません。あれらは何も知らなかったのでございますから。王師が来たと聞いて懲役した者たちはすっかり及び腰になっております」
「それも承知のうえだったろう?」
「卿伯──本当にこれで良かったのでございましょうか」
斡由は不快げに顔を歪《ゆが》めた。
「白沢、いまさらそれを言うか」
白沢はただ平伏する。更夜はそれを淡々と見た。
──迷うのも無理はない。
誰もが下官の前、兵卒の前では決して表に出さないようにしていたが、事態は思わしくない方向に動いていた。──王師の数が予想以上に多かったのだ。
関弓《かんきゅう》を出たとき、禁軍の数はわずかに七千五百、勝ったも同然だと諸官の誰もが言った。そもそも州侯城は難攻不落の城、これを攻めるだけでもなみたいていのことではなく、しかも地の利がある。負けることはあるまい、と誰もが安堵《あんど》の息を吐いたのだったが。
斡由は白沢を冷淡な目で見る。
「王師はどれくらいになった」
「現在の実数、おそらく二万余かと」
「──なに」
斡由は目を見開く。
「前回の報告よりも三千も多いぞ」
はい、と白沢は平伏した。
三千、と更夜は口の中でつぶやく。王師は歩を進めるに従ってその数を増やしている。ほとんどが近郊から鍬《くわ》を手に集まった農民の群れ、最初は笑っていた諸官もその数が一万に近づくにつれ笑うどころではなくなった。
元州《げんしゅう》令尹《れいいん》は玉座《ぎょくざ》の簒奪《さんだつ》を狙《ねら》い、国を再び折山《せつざん》の荒廃にさらす気だと、日ごとに民の不安は大きくなる。初めは斡由を支持していた者たちが、聞こえよがしに恨《うら》み言《ごと》をいう始末。元州の官の中にまで斡由の行為を咎《とが》める者が出始めた。頑朴の近郊からも王師へ身を投じる者がいる。いまもなお、共に戦おうと王師を追う人々が街道に列をなして頑朴へ向かっているという。
「関弓から先ほど報が到着しまして、関弓残留の靖州師《せいしゅうし》も三万を超えたと」
「──ばかな」
さすがに剛胆《ごうたん》で鳴らした斡由の面が強《こわ》ばった。
「──光州《こうしゅう》はどうした! なぜ王師の追撃をしない!」
白沢は深く頭を下げた。元州師一万二千五百、そう報告してあるものの、実際には八千しかいない。それも三千を光州師に貸与し、かろうじて三千を市民から懲役して埋めているのだ。
州師の数によって州に課せられる税役は増える。普通なら少なく報告するものはあっても多く報告するものはない。そこをつけこんで台帳を操作し、王師が全軍を挙《あ》げて頑朴に押し寄せるのを待ち、光州師の半数が背後から追撃、さらに半数が関弓へ攻め入る手筈《てはず》になっていた。
「光州候は関弓へ。──つい先だって冢宰《ちょうさい》におなりです」
斡由は大股に白沢に歩み寄る。平伏した白沢を間近から見下ろした。
「そんな報告は受けていない。──関弓へやった者は何をしていた」
「申しわけもございません。報告を怠《おこた》っていたようでございます」
「──ばかな」
ばかな、と言いたいのは白沢のほうだった。関弓からあまりに知らせがないのをいぶかしんで使いを差し向けてみれば、その者は故意に知らせを握りつぶしていた。
──天命あって玉座《ぎょくざ》についた王を退《しりぞ》けるとはどういうつもりか。元州の民のために起《た》って自治を得るとは聞いていたが、台輔を虜囚《りょしゅう》にして玉座を脅し取るなどとは聞いていない。
そう言い、これ以上逆賊に荷担はせぬと、部下を引き連れ、使者の目の前で王師に下ったという。
「……我々は玉座の重み、天命の威信をあまりに軽んじていたのかもしれません」
「梟王《きょうおう》の座の重み、梟王を御位《みくらい》に就《つ》けたものの威信をか」
「民はそれを信じているのです。誰もが新王の世で、豊かな時代が来るとそう思っております。我々はそれを裏切ることになったのです。民が離反することに何の不合理もございません」
「白沢──!」
斡由が立ち上がったとき、更夜はその異音を聞いた。
懐《ふところ》の内で弓弦《ゆづる》が断ち切れたような音がする。更夜は身を強《こわ》ばらせ、その音が耳に入ったのだろう、斡由と白沢もまた更夜を振り返った。
「──どうした」
更夜の面から血の気が引いていく。
「赤索条《せきさくじょう》が……切れた……」
「──なに」
「様子を見て参ります」
更夜は言い残し、身を翻《ひるがえ》して側に控えていた妖魔の背に飛び乗った。