淡々と続く波の音。断崖《だんがい》をなす海賊城の汀《みぎわ》には、死体が浮いて打ち寄せられている。城にいる誰もがそれを葬《ほうむ》ってやりたいと、せつにそう思っていたが、海に降りれば村上《むらかみ》から襲われるだけ、その村上勢もできることなら敵兵の首を取っていきたいだろうが、汀に近寄れば城からの投石や矢でいたずらに負傷者を増やすことになると了解している。
その死臭と大気に淀《よど》んで残る血の臭気が、汀からは離れた城の内懐《うちぶところ》にまで流れてきていた。六太は目を閉じて、血糊の臭気を振り落とすように首を振った。そのとたんに足元がふらついたのは、もうここ数日、低くはない発熱が続いているからだった。溜め息をついたその背後から朗々とした声がする。
「──なんだ、結局逃げなかったのか」
この状況でこれだけ明るい声を出せるのは尚隆しかいないだろう。そう思って振り返ると、やはり尚隆が肩に刀を担《かつ》いで立っていた。
「先立つものがないのかと思って、わざわざ路銀までくれてやったのに。物好きな奴だな」
城の中では逃げそびれた人々が肩を寄せ合って怯《おび》えた顔をしている。中の幾人かが尚隆の側にやってきて、もの問いたげに尚隆を見上げた。尚隆は軽く眉《まゆ》を上げる。
「──なんだ。そう悲壮《ひそう》な顔をしてどうする。どうせなるようにしかならん。軽く構えろ」
六太はそれを軽く諫《いさ》めた。
「無茶苦茶を言うな」
「無茶だが事実だ。どうせ結果が同じなら、心配するだけ損だぞ」
言って尚隆は縋《すが》るように見上げてくる三人ほどの老人に笑った。
「そう硬くなっていては、いざ逃げる段になっても足が強《こわ》ばって動くまい。気楽にしておれ。なんとかしてやる」
尚隆がそう言って笑うと、老人たちは安堵《あんど》したように息を吐いた。
「大したものはないが、ちゃんと食えよ。退散のための船は用意してやるが、そう足腰が萎《な》えていては船端《ふなばた》にしがみついてもいられんだろうが」
足弱で逃げ出せなかった老人たちに向かって、そんなことを言う。それでも老人たちは尚隆のあまりにのんきな言い分に安堵したのか、にっと笑って、まだまだ艪《ろ》を動かすぐらいのことはできる、と軽口をたたいた。
ではな、と尚隆は軽く手を挙げる。
「足りないものがあれば言え。もっともない袖《そで》は振れないがな」
甲斐性《かいしょう》なし、と老婆のひとりが揶揄《やゆ》するのに笑って手を振り、尚隆は隅櫓《すみやぐら》のほうへ歩いていく。六太は慌《あわ》ててその背を追った。
「なあ──」
「なんだ。こっちに来てもいいものはないぞ。ときどき村上が矢をくれるがな」
「勝算はあるのか? 本当にみんな逃げられるのか?」
「勝算などあるものか。城下は完全に押さえられた。すでに退路も補給もない」
尚隆は陸を見やった。火攻めにされた城下の街に残るのは熾《おき》ばかり、いまも薄煙がたなびいている。
「攻撃も間遠になった。それはそうだろう。いたずらに兵の命を使わずとも、ただ包囲していればそのうち城内の物資がつきる。──おっとりとそれを待っていると言うことだろうな」
「兵糧《ひょうろう》はあるのか」
尚隆は苦笑する。
「ないな。陸から運ばせることになっていたのだが、節約して半月分というところだろう。だから後背に注意しろと言ったのに、親父は戦《いくさ》に疎《うと》くてな」
尚隆の父親は尚隆とは違い、ずいぶんと風雅な人物だと聞いていた。家風を疎んじて自ら京より教師を招き、管弦《かんげん》や仕舞《しまい》に興じた。若くして死んだ尚隆の母親も、側室たちも都ぶりの女人ばかり、他ならぬ尚隆の正室でさえそうだったから、むしろ尚隆だけが異端だったのだと言ってもいい。
「──だが、人が増えたで、実際に半月は保《も》たん。なんとか飯の種がつきるまでに逃がしてやれるといいのだが」
言ってから尚隆は顔をしかめた。
「投降すると言っているのに、村上め、梨の礫《つぶて》だ。よほど自信があるんだろうよ。──まあ、あの連中も海賊だから分からんでもないが」
「海賊?」
「残ったのは女子供《おんなこども》ばかり、あとは爺《じじい》だ。だが、海賊というのはそんなに侮《あなど》ったものでもない。女子供に見えても連中は船を操れるし、爺といっても昔は剛で鳴らした連中だ、武器を取って戦うことができる。たとえ降伏を受け入れて臣下に引き入れても油断がならぬ。陸の上と違って村上の領土は海で分断されているしな。──できるなら根絶やしにしておきたいと、そういうことだろう」
それではみんな死に絶えてしまうと、そういうことではないだろうか。六太が見上げると、尚隆は笑う。
「とにかく懇願して女子供だけでも逃がそう。今度はちゃんと逃げろよ。ここにいては先がないぞ」
「それって、……お前も死ぬってこと?」
六太が訊《き》くと、尚隆は声をあげて笑った。
「たとえ村上が菩薩《ぼさつ》のごとくでも、俺ばかりは見逃してくれまいよ。──まあ、おもしろおかしく好き勝手にやってきたから悔《く》いはないが」
「──本当に?」
六太が低く訊くと、尚隆はふと一瞬の間だけ笑みを引いた。
「……まあな」
尚隆は城の背後を見る。焼け落ちた街。そこに布陣する村上の兵。背後の丘にはかつてあった屋形《やかた》の影すら見えない。石垣がただ燻《いぶ》されて黒い。
「──みんな死んだんだな。あんたの奥さんも子も……」
「早く逃がせと言ったんだが。親父は自分が負けるとは夢にも思ってなかったんだろう。戦いがあるということさえ、わが身のこととして受けとめていなかったのかもしれん。屋形を出るときに、連歌の会までには戻れと言っていたからな」
尚隆は苦笑する。
「子供までが死んだのは哀れだが……まあ、父親も一緒だから少しは慰《なぐさ》めになるだろう」
六太は尚隆の顔を仰いだ。
「お前の子供の父親って──親父さん?」
尚隆の声は淡々としていた。
「おそらくな」