壁に爪《つめ》を立てながら、六太《ろくた》は折れそうになる膝《ひざ》をはげます。ただひたすらに使令《しれい》を呼んだ。
「……悧角。沃飛《よくひ》」
どんなに呼んでも応答がない。弱く声を感じるが、使令の声もまた苦しんでいる。麒麟《きりん》と使令はそれほど近い。麒麟が病《や》めば、使令もまた病むものなのだ。
「……悧角」
使令には格がある。妖《あやかし》としての格だったが、女怪《にょかい》である沃飛と悧角とはその筆頭に当たる。その二者ですらこれほど苦しんでいる。他の使令に至っては、もはやその気配さえ感じられなかった。
できることなら、このままここで休みたい。だが、六太には時間がなかった。すでに六太が姿を消して殺される人質《ひとじち》もない。ひょっとしたら驪媚《りび》や子供の代わりに他の虜囚《りょしゅう》に糸が巻かれているのかもしれなかったが、そもそも六太に結ばれた糸自体に呪力《じゅりょく》が働いていないのだ。
──王師へ向かい、動かぬよう命じ、宮城《きゅうじょう》へ戻って尚隆《しょうりゅう》を説得する。
斡由《あつゆ》の言には一理がある。州の権を取り上げておいて、九州は広すぎて目が届かない、では通らない。不満は分かる。漉水《ろくすい》流域に住む者の不安も。だが、戦乱だけはなんとしても避けたい。亦信《えきしん》と驪媚と、子供と、もう十分失った。これ以上の死者を出してはならない。
萎《な》える足をはげまし、どうにか地下道を通って内宮の深部に出た。どの国においても、宮殿には一種独特の相似性がある。漠然と内宮の最深部を目指し、長明殿《ちょうめいでん》へ向かう。長明殿とはどの宮殿にも必ずある、王や州侯の尊属の住まう建物である。
壁の飾りに指をかけて身体を支え、回廊を進んでいると弱い声が聞こえた。
──台輔《たいほ》。
「悧角か。……どうした」
──人が。
六太は足をとめる。内宮の奥は閑散《かんさん》と人気《ひとけ》がなかったが、本来無人であるはずがない。
「小臣《しょうしん》か」
いえ、と悧角の声はどこか戸惑っている様子だった。不審に思ってそばだてた耳に、微《かす》かに音が聞こえた。人の叫びのような、獣の咆哮《ほうこう》のような──。
前か、それとも後ろか。戸惑いながらとにかく踏み出し、角をひとつ曲がったところで、いきなり明瞭《めいりょう》な叫び声が耳にとびこんできた。
びくりと身体を震わせて、六太は声のほうを見やり、ややあってそちらへ足を向けた。何を叫んでいるのかは聞き取れない。むしろただ声をあげている、そんな風に聞こえた。そして──それに交じる鎖《くさり》の音。
引きちぎる勢いで、鎖を鳴らす音がする。それは誰かが束縛を引きちぎろうとしている音に聞こえた。だが、──内宮の奥にどんな虜囚《りょしゅう》がいるというのだろう。
細い通路の奥、薄暗がりに石造りの階段が下へと降りているのが見える。これは本当に長明殿の最奥だから、これこそが六太を逃がしてくれた女が言った階段なのだろう。声はその下から、どこかすえた臭いのするゆるい風に吹き上げられてくる。
手摺《てすり》にすがって階段をひとつ降りた。通路はさらに細くなって、城の深部へと続いている。よほど使うことのない通路なのか荒《すさ》んだ色が明らかだった。
「やっぱりこの道でいいんだな……。でも、この声は?」
一歩進むごとに声は明瞭になる。ごく小さな脇道《わきみち》の奥に一枚の扉が見えて、声はその向こうからしているのだと知れた。うなる声、吼《ほ》える声、言葉ではない、ただそれだけの叫び。麒麟《きりん》の特異な能力が、その意を汲《く》み取る。それは──出せ、と叫んでいる。
六太はわずかに迷い、脇道へと入っていく。無視して通り過ぎることを許さない、ひどく切迫したものがその声にはあった。
ちょうど六太が扉の前にたどりついたとき、その声は唐突にやんだ。そっと扉の奥の気配を探れば、すすり泣きに似た声がする。
六太は扉に手をかける。そろそろと動かしてみると、扉は難なく開いた。
扉に錠が下ろされていないのも当然、扉の向こうには六太が押し込められた牢《ろう》のように鉄格子が下りていた。中はかなりの広さの部屋、しかし光のはいる窓も、明かりもない。ひられた戸口からの光だけが光源で、最初それは影にしか見えなかった。扉一枚分の鉄格子、その下にわだかまった影。
痩《や》せ衰《おとろ》えた老人だった。それが鉄格子の下に座り込んで、垢《あか》じみた手が格子を掴《つか》んでいる。六太を認めて涙に濡れた顔を上げ、格子を揺すってまたも声をあげた。
老人が動くたびに、耳障《みみざわ》りな鎖の音がする。汚物で汚れた石の床、そのうえに這《は》った鎖はのたうちながら部屋の奥から老人の足へと続いていた。
六太は呆然とその無惨に虐《しいた》げられた老人を見る。
「おまえ──誰だ……?」
問いかけても返答はない。叫ぶように大きく開かれた口が、ただうめきに似た声をまき散らすばかり。かろうじて分かる、出してくれ、という叫び。
──出してくれ。もうやめた。違うんだ、違うんだ。出してくれ。
「誰が──こんなことを……」
言葉がなくて当然、その老人の口腔《こうくう》には舌が見えない。──切断されているのだ。
「……悧角」
この格子を開けられるか、と問うてみたが、これには否と返答があった。
「──格子にも錠にも呪《じゅ》が」
言われてみれば、太い格子の表面に荒く文字が彫《ほ》りこまれている。
──なぜ、内宮のこんな奥に、こんな哀れな虜囚《りょしゅう》が。
──なぜ?
六太はつぶやく。
「……まさか……元魁《げんかい》か……?」
斡由の父。──元州候、元魁。
病《や》んでいる、と斡由は言った。気を病んでいるという噂《うわさ》もあった。内宮の奥深くに隠れ、出てこない、と。もしもその元魁が自ら閉じこもっているのではなく、鎖につながれ、捕らわれているのだとしたら。
だが、老人は、否と答えた。
──違う。違うんだ。もう、やめた。だから、だから、だから。
「そんなに焦《あせ》るな。落ちついてくれなきゃ分からない。元魁ではないのか?」
老人はうなずく。六太は軽く息を吐いた。
これが誰だかは知らない。なぜこんなところに捕らわれているのかも。だが、少なくとも元魁ではない。わずかに安堵《あんど》する反面、苦いものが胸の中に浮かんだ。──なぜこんな哀れな虜囚が。
「……分かったから泣くな。いまは無理だけど、必ずなんとかしてやるから。もうちょっと待ってろ。──な?」
老人は滂沱《ほうだ》と涙を流しながら、何度もうなずく。
──たとえこれがどういう種類の罪人にしても、こんな束縛のしかたは許されない。なぜ斡由はこんな非道を許している。知らないとは思えない。内宮のこんな奥にあって、斡由が気づかぬわけがない。
置いて行かないでくれ、と叫ぶ老人をなだめて、六太は通路を下へとたどる。
「……斡由、お前、なぜあんなことを黙認してるんだ……?」
──民のために、とお前は言いはしなかったか。