岩山の中の隧道《すいどう》は、曲がりくねり、枝分かれし、いつのまにか方向の感覚を失わせてしまう。何層降りたか忘れた頃に、下へ降りる道を見つけられなくなった。迷ったらしいと気がついて、あわてて戻る道を探しているのだが。
「……ここはどこなんだ?」
自分の足跡をたどれば、とそう思って引き返しては見たものの、途中で水の流れが泥を洗い流している場所もあり、あるいは隆起した岩をそのままにしてある箇所もあり、ほとんど明かりのない箇所もあって自分の足跡さえ見失ってしまう。
「……沃飛《よくひ》。分からないか? 下へ向かう道だ」
ぞろりと薄闇の中に落ちた影が蠢《うごめ》いた。ややあて苦しげな返答が聞こえる。
「このあたりには……どこにも。どうやらまったく別の地下宮に迷いこんだようです」
「城の中のどのあたりか、分かるか?」
「……お許しください。壁や床を抜けることがまだできません」
使令《しれい》は遁甲術《とんこうじゅつ》を使う。地脈に乗り、水脈に風脈に乗り、あらゆるものの気脈に乗って、隠形《おんぎょう》したままどこまでも駆ける。たとえ万里を離れていても、麒麟《きりん》の気配を灯台代わりに、行って戻ってくることができた。だがそれも、いまのこの状態では難しい。蓬山《ほうざん》生まれの麒麟の中にはこれができる者もあったが、あいにく六太にはその能力がなかった。
岩を削《けず》った廊下には、地下水が零《こぼ》れて流れている。明かりはあるものの、その数もまばら、ぼんやりと白いのは光蘚《ひかりごけ》だろうか。
「少しお休みになっては」
そういう悧角の声も弱い。
「うん。ここでなら少し休んでも大丈夫かな……」
六太は壁に肩を当ててずるずるとその場に座りこんだ。眩暈《めまい》が酷《ひど》い。壁伝いに歩いているだけで船酔いでもした気がする。何度も意識が混濁《こんだく》しそうになるのを、かろうじて耐えているのだ。六太は頭からほどいた布で汗をぬぐった。半分は脂汗だ。荷物はとうに捨ててきた。とてもかかえていられなかった。
改めて見回せば、ほとんど使われていない一郭《いっかく》なのは確かなようだ。降り積もった埃《ほこり》の上を地下水が流れ、泥道のようになっているが、足跡がない。
悧角の背にもたれて大きく息を吐き、六太は間近で物音を聞いた。ぎくりと周囲を振り返り、耳を澄ませて、微《かすか》かに自分の息づかいを聞く。
「……誰かいるのか?」
語尾が虚《うつ》ろに谺《こだま》して、それがしんと絶えた頃に、ようやく間近で声がした。
「──そこにおるのは誰だ?」
六太は壁を検分する。よくよく見ると壁の一方に細い亀裂《きれつ》があって、声はそこから聞こえてくるのだ。
「──ええと、……迷い子なんだけど」
亀裂をのぞきこむと、中は暗い。けれどもさほど深い亀裂ではなさそうだった。
「迷い子? こんなところになぜ迷いこんだ」
「ちょっと散歩……。──ここ、どこ?」
くつくつとどこか音程の狂った笑い声がした。
「怨獄《おんごく》だ」
「……おっさん、何者」
「無礼をぬかすか。主人の声を聞き忘れたか」
六太はぴくりと震えた。この城で己《おのれ》を主人と言ってのける。それを許される者の数は限られている。ふいに鎖に捕らわれた老人の姿が瞼《まぶた》に浮かんだ。
「まさか……元魁《げんかい》か?」
「呼び捨てにするか。そこまで儂《わし》をないがしろにするか」
自嘲《じちょう》するような笑い声が亀裂を這《は》う。
「元魁──いや元候はお加減が悪いと聞いていた」
やはりあれは元魁ではなかった。……だが、ならば──?
「悪い? 悪いとも。もう何年も飲まず食わずだからの」
飲むものは床を這う地下水だけ、食うものにいたっては蘚《こけ》だけだ、と元魁は笑った。
「食事がもらえない? それじゃあまるで幽閉じゃないか」
「幽閉? これを幽閉というのか? 捨てたと言ったほうがよかろうが。儂はこの奈落《ならく》の中に突き落とされた。それきり忘れられておる。誰ひとり様子を見にくることもない」
六太は息を呑《の》む。州侯もまた仙だから、寿命などというものはない。仙籍《せんせき》を削除されるまでは、殺す方法といえば首を落とすか胴を両断するか、多少の怪我《けが》は治癒《ちゆ》してしまう。なまじのことでは死んだりはしないのだ。──麒麟《きりん》や王と同じく。
「人の声を聞いたは、それ以来だ」
「……ばかな」
六太がつぶやくと元魁はようやく笑いを止めた。
「いったい、何年が経《た》ったのだ? 儂にどうせよと言うのだ。奴は州侯位がほしいのだ。だが儂《わし》は王でないのだから致し方あるまい。候は王が任じるもの。儂が私情で誰かに譲《ゆず》ってやるわけにはいかんのだ。分かるだろう」
岩肌にすがった指が震えた。
「……まさか、それは斡由のことを言っているのか……?」
そんなはずはない。仁道篤《じんどうあつ》い卿伯《けいはく》だ、民思いの令尹《れいいん》だと、どれほど褒《ほ》めそやす声を聞いたか。更夜《こうや》もそう言った。斡由は更夜の恩人だ。六太が救えなかった六太の友人を助けてくれた。民のためにといい、道のためにと言った斡由が元魁を幽閉することはありえない。
──だが、ならばなぜ斡由は、あんな虜囚《りょしゅう》を哀れなままに放置しておく?
「もちろん、あの奸夫《かんぷ》のことを言っておるのだ」
元魁の声は躊躇《ちゅうちょ》もなく、真実憎々しげな調子だった。
「儂の勝手で州侯はやれん。そう突っぱねれば、ならば王になれと無理難題を言う。儂とて玉座《ぎょくざ》を望まなかったわけではないが、天命がなかったのだから致し方あるまい。それをあれは腑抜《ふぬ》けだと言う。玉座を狙《ねら》って起《た》つこともできん能なしだというのだ。王の顔色をうかがい、機嫌《きげん》をとって阿諛追従《あゆついしょう》で生き延びる屑《くず》だとぬかす」
王とは梟王《きょうおう》のことだろう。元魁が表に出てこなくなったのはその時代からのことだと聞いている。
「──確かに、儂は王におもねった。逆臣を捕らえよ、謀反《むほん》は取り締まれとおっしゃるのでそのようにした。民を殺さねば生き延びることができなかった。処刑が少なければ手ぬるいとおっしゃるのだ。どころか、儂にまで逆心あって庇《かば》うかとおっしゃる。疑いを晴らすためには逆心ない民まで殺さねばならなかった。──それで王は斃《たお》れたか?」
「当然だ。……梟王は差し出した逆賊の死体の数によって褒賞《ほうしょう》を与えたそうだな」
「決して、──決してそれだけではない。信じてくれ」
元魁の声は恨《うら》みを含んで、とうとう流れた。
「斡由は儂には候の資格がないとぬかす。そうして儂をここに落とした。──だが、奴が令尹でいられるのは誰のおかげだ。儂が宰相《さいしょう》にとりたててやったからなのだぞ。候は儂だ。儂が元州を王より賜《たまわ》ったのだ」
「……梟王の圧政下、お前は民を売って地位を保っていたということだろう」
「しかたがなかったのだ」
「それを斡由は唾棄《だき》したのだろう? 諌言《かんげん》しても、お前はしかたないなどと言う。民を虐《しいた》げるのは本意ではないが、王の命だから、と」
「もちろん、──そうだ」
「では立って王を正すかといえばそれもしない。せめて州侯を譲れと言えば、王の任じるものだと抵抗する。それでお前はこんな所に捨てられる羽目になったというわけだ……」
──そういうことだったのだ。斡由は元魁に執政者の資格がないと、民のためにはならぬと判断して元魁をここに捕らえた。道を失った梟王、道を正すには王を討《う》つしかなかった。それは分かる。梟王におもねる元魁が保身のために民を虐《しいた》げるなら、なるほど民を守ろうとすれば元魁を押しこめ幽閉するしかなかったろう。時は梟王の治世下、斡由は元魁に病あることにして、仮に政務を譲《ゆず》られたと申し開く。そこまでは理解できる。──だが。
……ならば、あの虜囚《りょしゅう》は──?
元魁の返答が絶えた。
「そのうち、運があれば助けてやるよ」
六太は言ってやった。運があって内乱がおさまり、王のほうが勝つことがあれば。
軽く息をつき、萎《な》える足を叱咤《しった》して立ち上がり、離れようとした六太を呪詛《ずそ》めいた声が追いかけてきた。
「儂《わし》は知っておるぞ。……斡由はただ候位がほしかったのだ」
六太は足をとめる。
「理由などなんでもよかった。儂を幽閉する口実があればよかったのだ」
きりり、と歯ぎしりをする音さえ聞こえそうだった。
「しっておるか。斡由は弓が得意での」
「……それが」
「大儺《ぎしき》の射礼にも外《はず》したことがない。的中を外したのは一度だけだ」
元魁はくつくつと歪《ゆが》んだ笑い声をあげる。何が言いたいのか、量りきれずに六太はただ耳を傾けた。
「その一度のおり、斡由は的を用意した下僕《げぼく》が悪いと言《い》い募《つの》った。天神の降臨を願い、魔を追って射《い》る的をあえて傾けて置いたのは、凶事あれとの呪術《じゅじゅつ》だと言い募って下僕を処刑したのだ」
六太は眉《まゆ》をひそめた。
「斡由はできた子だ。できぬことなどない。理《ことわり》を知り情を知り、利発だとも。だが、あれにはたったひとつ欠けたものがある。己《おのれ》の失敗を認めることができんのだ」
くつくつと元魁は笑う。
「崩じてのち、あれが昇山《しょうざん》したか? 延麒《えんき》に天意を諮《はか》ったか? しておらんだろう。あれはそういうことはできんのだ。もしも昇山して王でなければ赤恥をかく。斡由はそういう恥辱《ちじょく》に絶えられはせん」
「しかし──」
「剛胆《ごうたん》か? 万能の傑物《けつぶつ》に見えるか? 見えるだろうとも。非は他者になすりつけ、過《あやま》はちなかったことにする。あれは一度たりとも己が誤ったことなどないと信じておる。いくらでも剛胆になれるだろうよ」
六太はじっと霞《かす》む目で足元に視線を落とす。元魁の言葉に耳を傾けながら、不安が胸の中に忍び上がってくるのを感じていた。
──あの虜囚《りょしゅう》。
「あれは己《おのれ》が完璧《かんぺき》だと信じておる。完璧だと信じたいのだ。傷をつけるものは無視するぞ。傷を隠すためにならなんでもするぞ。──そういう奴だからな」
六太はその場を離れた。足元が震える。
斡由は民のために立つ、とそう言った。斡由の言には理《ことわり》があった。だから唯々諾々《いいだくだく》と元州に捕らわれていたのだ。だが、正義を語るものが必ずしもまったく正義の者ではないことを、六太は忘れてはいなかったか。
人は正義を標榜《ひょうぼう》するのだ。王や君主でさえ正義の御旗《みはた》がなければ兵を動かすことなどできない。実態のない正義だ。だから正義が行われて、民はあれほど苦しまねばならない。
内乱が起これば民が苦しむだけだ、と六太は斡由に再三言った。民を思うといいながら斡由がどうあっても兵を挙《あ》げようとするのはどういうわけか。真実民を思う者が、あそこまで挙兵にこだわるだろうか。斡由を説得しようとするたび、妙に感じざるをえなかった無力感が、斡由の正義に実体がないゆえのことだとしたら──。
「……斡由」
──あの虜囚。
「あれは元魁の身代わりか、斡由……!」
元魁を幽閉し、その影武者を立て、これを内宮に隠す。
──もうやめた、と老人は再三叫ばなかったか。
光のない牢《ろう》、老人は斡由に言い含められ、元魁の身代わりを務める。だが、やがては牢に捕らわれた暮らしに飽《あ》きる。
──違うんだ。もうやめた。だしてくれ。
鎖で捕らえ、余計なことを言わぬよう、舌を切って。
「……斡由……貴様……」
元魁の声がどこまでも追ってくる気がした。