ともあれ、更夜は女を連れてその一郭、通い慣れた道をたどった。ここには処分を待つ罪人が連れてこられる。そのほとんどが謀反《むほん》の疑いあって閉じこめられる者たちだった。
──むろん、斡由《あつゆ》とて臣下《しんか》が逆心を抱くことをとめることなどできはしない。頭上に戴《いただ》く者が賢者であれ愚者であれ、必ずそれに反逆する者はいるものなのだ。
「お入り」
更夜は牢《ろう》の扉を開く。一郭《いっかく》の最奥にある、最も広い牢だった。女を押しこみ、暗黒の中で後ろ手に錠を下ろす。次いで松明《たいまつ》の火を部屋の一隅にある松明に移した。更夜の持ったそれと、更夜が点火した二本のそれに照らされて、荒く岩盤を刳《えぐ》っただけの牢内の様子が露《あら》わになった。最低限の家具を置かれた室内。縄《なわ》をかけられ、立ちすくんでいる女。
「掛けなさい」
更夜は寝台を示した。女は不安を露わに、寝台と室内を見比べてから、躊躇《ためら》うように腰を下ろした。
「──なぜ、ここに至って卿伯《けいはく》に仇《あだ》なす。元州《げんしゅう》がいま、どういう状態だか分からないか」
更夜は淡々と問うた。
「分かっているわ。公道に背《そむ》き、天意を踏みにじろうとしているのよ」
「それは最初から分かっていたことだろう?」
「聞いてないわ」
女は吐き捨てた。
「卿伯が立って、公道を正すと聞いた。謀反だなんて聞いてない。──なんという恐ろしいことを。王を倒すということが、どういうことなのか分かっているの?」
「卿伯は常に民のことを考えておられる。それは元州の諸官、端々《はしばし》までが知っていることだろう?」
女は苦笑した。
「民のため? だったらなぜ堤防を切る。王師《おうし》の数をあなたも知っているでしょう。元州は負けたの。卿伯は読みを誤ったんだわ。もう勝敗は確定している。なぜあえて堤《つつみ》を切って、民を虐《しいた》げてまで戦う必要があるの? それが民を思う人のすること?」
更夜は黙した。──だが、挙兵した以上、敗北はできないのだ。
「わたしの友人は遂人府《すいじんふ》の府吏《ふり》だったわ」
女は言って、松明に目をやる。
「幼なじみだったの。彼女はずっと言ってた。本当に卿伯が元州を動かしていいものだろうか、って」
「しかし、候は」
「ええ。候は御不調で御政務にお就《つ》きになれない。それはそうでしょうよ、内宮の官がわけの分からないことを喚《わめ》きちらす候のお声を聞いているわ。この十五年ほどは、ほとんど言葉もお喋《しゃべ》りになれないとか。だから卿伯が代わって元州を束ねているのよ」
更夜はただ静かに女を見る。
「それが分かっているなら、なぜ?」
「わたしは彼女にそう言ったわ。──でも、彼女はそのたびに怒った。卿伯は理《ことわり》を説《と》き、道を説かれる。聖人君子《せいじんくんし》の顔をして。けれど本当に卿伯が無私の人物なら、なぜ候の状態を国府に奏上して元州を国府に返さないのだ、って。元州は候に与えられたもの。候を定める権限はただ王だけにある。たとえ王が玉座《ぎょくざ》におられなくても、六官にこれを奏上し、指示を仰ぐのが公道というものではないの? 卿伯はそれをしなかった。自分の手の中に権を握りこんで、王が登極《とうきょく》なさっても、これを返そうとはしない」
更夜はただ、吐き捨てる女の顔を見つめた。
「これを無私というの? 正道だというの? わたしには分からなかった。彼女は分かってた。斡由は偽善者だわ。聖人君子の皮を被《かぶ》った暴君よ。彼の求めたのがただ権でもなく、ましてや財でもなかったから、わたしは今日まで気づかなかった。斡由はただ、自分への賛美がほしかったのよ」
「暴論だね。そこまで極端に走ってはいけない」
「いいえ。わたしにはもう、彼女が正しかったことが分かってる。斡由はただ賛美がほしかったのよ。そのご褒美《ほうび》として権を望んだ。民のためでも道のためでもない。できた令尹《れいいん》だと褒《ほ》めそやされてみたかっただけじゃないの」
女は顔を歪《ゆが》める。
「こんなことに気づかなかった自分が悔《くや》しい。言い張る彼女を諭《さと》していた自分はなんて愚《おろ》かだったのかと思うわ。──
端々《はしばし》までが知っている? 卿伯が民を思っていることを? そうでしょうとも。斡由にうかうかと騙《だま》された愚か者だけが残ったんですもの。それは城の端々まで、信仰が行き渡っていることでしょうよ。斡由の本性《ほんせい》を見抜いた聡《さと》い人々はどこへ行ったの? わたしの友達はどこへ?」
更夜はただ目を伏せる。
「彼女はある日、斡由に向かって喰《く》ってかかった。あんたに捕らえられ、官をやめさせられて、それきり行方《ゆくえ》がしれなくなった。大僕《だいぼく》が言っていたわ。斡由を崇《あが》める者が多いから、城内に置いておけば、必ず彼女に制裁を加える者がいる、だから元州を出るように諭《さと》して逃がしたんだって。──それは本当?」
「そういうことがあったと思う。卿伯はそういった罪人を処罰なさることがお好きではないから。批判には寛容な方だからね」
「だったらなぜ、彼女から一度も便りがないの。彼女が大切にしていた物の全てが残っていたの。──どうして?」
「さあ」
「化け物……」
更夜はとっさに伏せた目を上げ、女を見る。
「その妖魔に喰《く》わせたのでしょう? あたしも喰わせようというのでしょう、──この人妖《にんよう》」
更夜はただ女を見て、すぐにやんわり笑んだ。
「お前は心を変える気がないようだから。──それもしかたがないね」
女が立ち上がった。
「……やっぱりそうなのね」
「わたしの仕事だからね。わたしはあいにくお前の言う愚《おろ》か者《もの》だから、卿伯の理《ことわり》を信じている。お前があくまでも卿伯を誹謗《ひぼう》するというのなら、お前の存在は卿伯のためにならない」
「斡由が命じたのでしょう」
いや、と更夜は首を振る。
「卿伯はわたしがこんなことをしていることを知ったら、お許しにならないよ。でも、どう考えてもこれが卿伯のためだからね」
言って更夜は妖魔の毛並みを梳《す》く。
「卿伯はお優しすぎる。敵を排除するときにはね、必ず息の根をとめておくものだ」
さ、と更夜は何の感慨もなく、妖魔を促《うなが》した。
「──ろくた、餌《えさ》だ」
女が転《ころ》がって飛《と》び退《すさ》る。金切り声をあげた。妖魔は嬉々《きき》として跳躍した。その本性《ほんせい》において、殺戮《さつりく》は妖魔の喜ぶところなのだ。
──斡由が命じたわけではない。
更夜は女の悲鳴を聞きながら思った。断じて一度たりとも、斡由が更夜に殺戮を求めたことはなかった。ただ斡由は繰り返すのだ。苦吟《くぎん》を。理解されない苦しみ。臣から反逆のあった恨《うら》み、その謀反者《むほんもの》が捕らわれていることに対する不安を。
──まさか何かのはずみに逃げ出して、わたしの命を狙《ねら》うことがないだろうか。
──まさかそのときに、たまたま更夜がいなかったら、わたしはどうなるのだろう。
斡由はただ繰り返す。別段|怯《おび》える様子もなく、ただ何かを言外に語る目をして、更夜にそれを際限なく繰り返すのだ。死を与えようか、と更夜が言えば叱責《しっせき》する。なのに牢《ろう》の中に謀反者のいる危険性を斡由は更夜に吹きこみ続ける。
たまりかねて更夜はひとり牢へ向かった。──もう何年も前のことだ。
囚人の処遇を任せてほしいと斡由に申し出た。斡由はこれにうなずき、更夜は妖魔を連れて囚人の許《もと》を訪れた。ろくたに喰わせてしまえば、死骸は残らない。血の一滴までも嘗《な》め取るのを確かめて、歯の根も合わぬほど震えながら斡由の許に戻った。戻って囚人は因果を含めて城外へ追放した、と報告した。
他の誰なら、更夜のあの見え透いた嘘を信じただろう。完全に面から色を失い、呂律《ろれつ》までも怪しい、いまにも座りこみそうなほど震えていた人間の報告を?
そうか、と斡由は笑んだ。その掌《たなごころ》を更夜の頭に載せた。
──お前は本当によくできた臣だ。
そして、と更夜は妖魔が獲物を咀嚼《そしゃく》する音を聞きながら自分の手を見た。
斡由は言った。どこか不穏な目の色で、それでもなお笑ったまま。
──お前はわたしの意を言わずとも量《はか》ってくれる。わたしがそれを望んでいたことを、よくも悟《さと》ってくれた。これほど情のある射士《しゃし》をもって嬉《うれ》しい。
肩をたたくその掌の重さに、更夜はようやく本当に斡由の意を悟った。斡由は最初からそれを望んでいたのだと。それを更夜に唆《そそのか》し続けていたのだと。
斡由はこの一事を諸官の前で報告して更夜を誉《ほ》めそやした。以来、罪人の処遇は全て更夜に任す、とそう宣じた。
つまり、更夜は暗殺者になったのだ。更夜に危害を加える者だけでなく、斡由の立場を害する者を排除するためにそれからもずっと妖魔を使った。
もちろんこの女の命運は、斡由に逆らった時点で尽きていたのだ。これは妖魔の餌《えさ》になるためにここに運ばれた。そして更夜はいつものように、床に落ちた一滴の血糊《ちのり》までを見逃さず、これを全部妖魔に処分させて、斡由の許《もと》に報告に戻る。──女は放した、故郷にでも帰ったのだろうと。
これが斡由と更夜の間に無言のうちに交わされた密約だった。斡由は決して殺せなどとは命じない。更夜は斡由のためを思い、忠義にかられて殺すのだ。そういうことでなければいけない。だから斡由にもそう報告する。女は放した、とそう言わなければならない。そうすれば更夜は温情ある射士だ、よくできた臣下だと誉めてもらえる。
──もう、慣れた。
今夜は淡々と妖魔が女を始末するのを見守った。
ここで斡由に対する弾劾《だんがい》を聞くこと、悲鳴を聞くこと、自分の手が血塗《ちぬ》られていくこと。
……いまさらこんなことで、心を動かされたりしない。