「そこに休ませてあげて」
へい、と男は背中の子供を降ろす。寝台の上に横たわらせた。
「うんでもなけりゃ、すんでもありませんな」
「本当にお加減が悪いんだよ」
更夜は六太《ろくた》の頬《ほお》に触れる。掌《てのひら》にひどく熱い。本当にこんなにも血に弱かったのかと、複雑な思いで六太の顔を見下ろした。
「さっきの女、本当に妖魔に喰《く》わせたんですか?」
「まさか。そんなことはしない。卿伯《けいはく》はお優しい方だから、そんなことをしたら、おれをお許しにならないよ」
「本当ですか? けっこうおっかないとこだな、ここは」
更夜は風漢を振り返る。笑んで見せた。
「しないと言っているだろう。──けれどね、妙なことは考えないほうがいい。もしも卿伯に危害を加えることがあれば、そのときには容赦《ようしゃ》しないよ」
いっこうに気にしているとは思えない口調で、男は怖い怖い、とつぶやいている。
「少しの間、お前に任せる。きちんと見張っているように」
言って踵《きびす》を返したところで、六太の声がした。
「──更夜」
更夜は振り返り、寝台に駆け寄る。
「大丈夫か? 苦しい?」
「……大丈夫だ」
言って六太ははっとしたようにのぞきこんだ更夜を見上げた。しばし、まじまじと更夜を見つめ、深い息を吐いてから悲しげに瞑目《めいもく》する。
「六太?」
「更夜、お前……血の臭いがする……」
はっと更夜は身を引いた。
「……お前……人を殺したんだな……」
六太は顔を覆《おお》った。
「こないだまでは、確かに血の臭いがしなかったのに……」
「いまは非常時だからね。もちろん、殺すよ。だってそういう役目だから。六太が卿伯に仇《あだ》なせば、六太だって殺す」
そうか、と六太はつぶやく。
「更夜、頼みがある……」
「おれを王師《おうし》に連れていってくれないか」
更夜は目を見開いた。
「──だめだ」
「では、斡由《あつゆ》に頼む」
「だめだ、六太」
六太は斡由に逆らわないから。だから命がいまだあるのだ。斡由はかなり追いつめられているが、まだ六太までも殺そうなどとは思っていない。だが──斡由に逆らえばどうなるか。
六太は目を開けて更夜を見る。
「おれ、いまので分かった、おれは斡由に協力しない」
「六太──」
「更夜に人殺しを命じるような奴、嫌いだ。更夜はあんなに殺戮《さつりく》を嫌《いや》がっていたのに」
「──え?」
更夜は目を見開く。
「最初にあったとき、そう言っていたじゃないか。大きいのにも襲わないように言っているのに聞いてくれないって、悲しそうに」
更夜は虚《きょ》を突かれて六太を見つめた。
「なのに人殺しを命じるのか……そんな奴、更夜の主《あるじ》とは認めない」
六太、と更夜はつぶやく。殺していないと言い張っても、誰も更夜を信じたりはしない。襲わないと言っても、妖魔を信じて近づく者などいない。斡由でさえ──ろくたをなでたことはないのだ。
「……おれはもう、そんなこと気にしない。おれは斡由の臣だから、斡由が殺してほしいのなら、誰だろうと殺してみせるよ」
更夜は言った。六太の悲しげな顔につられて、更夜まで泣きたい気分になる。
「──麒麟《きりん》もそうなんだろう? 王に命じられれば、決して逆らわない生き物だって聞いた」
「尚隆《しょうりゅう》は人殺しを命じたりしない」
「決してと言いきれるか? 人など何をするか分からない。六太の主《あるじ》だってそれは同じだ」
清廉潔白《せいれんけっぱく》の令尹《れいいん》という。更夜だって斡由をそうだと思っていた。──だが政《まつりごと》は清いだけでは行えない。王なら清いままでいられるだろうか。そんなことはありえない。
「そんなことはせんよ」
いきなり割りこむ声があって、更夜は慌《あわ》てて風漢を振り返った。男はいっこうに頓着《とんちゃく》なげに寝台に腰を下ろして、更夜を見てにっと笑う。
「俺は六太に人殺しなどさせない。こいつにさせるより、俺がやったほうが早いからな」
更夜は目を見開いた。
「……お前」
「尚隆、この莫迦《ばか》!」
とっさに身を起こした六太の額を尚隆は小突《こづ》いて突き倒す。
「寝てろ。──莫迦はどっちだ」
「──延王《えんおう》……」
つぶやいた更夜を尚隆は見る。
「……更夜とやら。お前は本当に六太の友のようなので頼む。こいつを返してはもらえんか。どうしようもない悪餓鬼《わるがき》だが、これがいないと多少は困ることもあるのだ」
更夜は妖魔の首に手をかけた。
「麒麟《きりん》がいなければ仁道《じんどう》を見失うか?」
「いや、がみがみ言う官の矛先《ほこさき》が俺にばかり集中する」
笑う男の顔を見やって、更夜は妖魔にかけた手に力をこめた。
「……何が目的で元に侵入した」
「なにしろ俺しか小回りが利《き》く者がいないのでな」
「卿伯か」
そろり、と更夜は妖魔から手を離す。とたんに六太が叫んだ。
「更夜──よせ! 尚隆に何かしたら許さない」
更夜は首を傾けた。
「いまさら、王を庇《かば》うのか?」
六太はうなずいた。一声で尚隆だと分かった。近づいてくる彼に地下の迷路には射すはずのない陽光が見えた。──尚隆が王だ。それだけは否定できない。
「言ったろ? ……おれは尚隆の臣なんだよ」
「おれだって卿伯の──斡由の臣だよ」
更夜は白い面で淡々と六太を見る。
「斡由が命じればなんだってする。斡由を守るためにいるのだから、斡由に仇《あだ》なすなら誰だって殺す」
「斡由が命じれば謀反《むほん》にも荷担するか? 斡由が逆賊になってもいいのか? 分かっているのか、斡由は討《う》たれるかもしれないんだぞ」
「逆賊と呼ばれても上帝の位がほしいならそうすればいい。逆賊として討たれることなんて承知なんだから。それでいいんだろ? 国が滅びようと傾こうと上帝になりたいというのなら、そうすればいい。おれはただ斡由を助けているから」
「じゃあ、おれは?」
六太は更夜を見つめた。同じく夜に目覚め、捨てられた子供だ。
「……おれは更夜が好きだよ。けど、そんなに血の臭いがしてちゃ、おれは更夜の側にも寄れない」
「しかたない。六太が尚隆を守りたいように、おれは斡由を守りたいだけだよ」
「そのために誰を殺してもいいのか? それできにならないのか?」
そんなはずはない、と六太は思う。少なくとも六太の知る更夜はそんな者ではなかった。
「斡由が良しとするなら、人を殺してもいいのか。道に悖《もと》って兵を挙《あ》げていいのか。それで国を傾けてもいいのか。更夜は自分のような子供を作りたいのか!?」
六太の叫びに、更夜はぽつりと答える。
「他人なんか、知らない」
更夜の顔は白々と表情がなかった。
「国が滅んで、それがなぜいけないんだ?」
六太は瞠目《どうもく》する。
「──更夜」
「なぜ人が死んではいけないんだ? 人というのは死ぬものなんだ。国というのは傾くものだ。どれほど惜《お》しんでも滅んでいくのを止められない」
更夜は妖魔の子だ。妖魔が徘徊《はいかい》することがすなわち国土の荒廃をさすなら、まぎれもなく荒廃の申し子だった。
「斡由だけ、良ければいいんだ」
六太は呆然と更夜を見る。──なぜ分からなかったか。更夜の胸中がどれほど荒《すさ》んでいても、何の不思議もないことに。
「おれは六太だけ、少し特別だったけど、斡由はお前に興味がないからしかたない。おれはお前をいくらでも苦しめる。誰がどれだけ苦しもうと、国が滅ぼうと、そんなこと全部しかたがない。斡由がそれでいいと言うんだから、それでいいんだ」
「更夜!」
「国が傾くのが怖《こわ》いか? 荒廃が怖いか、死が怖いか。楽になる方法を教えてやろうか」
更夜ははんなりと笑う。
「──全部滅びてしまえばいいんだ」
「……斡由が死んでもいいのか」
六太が問えば、淡々とうなずく。
「斡由が死にたいのだったら、それでいいよ」
「ここはお前の国だ!」
突然、尚隆が声をあげた。六太も更夜も、立ち上がった男を驚いて見上げた。
「──斡由だけがお前のものなのではない。この国はお前のものなのだぞ」
六太は視線をそらす。
「尚隆、……無駄だ」
「──ふざけるな!!」
六太に怒鳴って尚隆は更夜を振り返る。
「国が滅んでもいいだと? 死んでもいいだとぬかすのだぞ、俺の国民が! 民がそう言えば、俺は何のためにあればいいのだ!?」
更夜は瞬《まばた》いて尚隆を見上げる。
「民のいない王に何の意味がある。国を頼むと民から託されているからこそ、俺は王でいられるのだぞ! その民が国など滅んでいいという。では俺は何のためにここにおるのだ!」
敗走する人々に向かって射《い》かけられる矢。城も領地もそこに住む人々もいっさいが炎の中に消えた。
「生き恥さらして落ち延びたはなぜだ! 俺は一度すでに託された国を亡くした。民に殉じて死んでしまえばよかったものを、それをしなかったのは、まだ託される国があると聞いたからだ!」
──国がほしいか、と六太は尚隆に訊《き》いた。
「俺はお前に豊かな国を渡すためだけにいるのだ、……更夜」
更夜はしばらく呆然とその男を見上げていた。
「おれは……そんな綺麗事《きれいごと》を信じるほどおめでたくないよ」
更夜は立ち上がった。どれほど安らかに暮らせる場所がほしかったろう。だが、そんなものはないのだと悟《さと》った。蓬莱《ほうらい》に決していけないように、そんな場所にはたどりつけない。国も人も──決して。
「おれは何も聞いてない。──何も知らない」
顔を歪《ゆが》めて背を向ける。
「……ここはお前に任せる、風漢。すぐに台輔《たいほ》をお世話する官を寄こすから、それまで台輔をここに留め置くように」
「更夜」
更夜は振り返る。
「言っておくが。──卿伯に仇《あだ》なせば、妖魔に襲わせる。それを決して忘れないように」