「白沢!」
斡由は白沢に歩み寄り、その胸ぐらを掴《つか》んで投げ捨てた。
「天下の逆賊、不忠の輩《やから》とはお前のことだ、白沢!」
斡由は白沢を恨《うら》みをこめた目つきで見下ろした。
「できた令尹《れいいん》よと持ち上げて、足元に火がつけば見捨てるか。そもそもお前は州宰だろう。州が道を誤ればとめるのがつとめではなかったか。俺が謀反《むほん》を言っても、とめるどころかこれを支持し、いざ逆臣と呼ばれれば掌《てのひら》を返して主《あるじ》と呼んだ者を見捨てるか!」
お前たちもだ、と斡由は及び腰になった諸官を見据える。
「──堤《つつみ》がほしいと言ったのはお前たちではなかったか! 元州のために権がほしい、治水《ちすい》を行い均土《きんど》を行いたいといったのだろう。民のためにそれが必要ではなかったか。──そもそもお前たちは王にではなく、わたしに忠誠を誓ったのではなかったか!」
斡由は叫んで白沢に歩み寄る。
「もとはと言えばお前が唆《そそのか》したのだろう」
「──わたしは」
「このまま延王《えんおう》に任せておいては天下の道がならぬ。心ある者が立って、道を正さねばならないと、そう言ったのはお前ではなかったか」
「卿伯、わたしは……」
「それをできるのはわたししかない、と煽《おだ》てて唆したのはお前だろう」
「わたしは──そのような」
「逆臣とはお前を言うのだ、この痴《し》れ者《もの》が!!」
「斡由さま──!」
「わたしの民を思う心につけこみ、逆賊となるべく唆し、不利と見るや、人に罪を着せて逃げようとするか。──こんな奸臣《かんしん》につけいられたわたしが不明であった」
嘆くように言って、斡由は一隅に控えた更夜を振り返った。
「──連れていけ」
「卿伯……」
どこか悲嘆の色を浮かべた更夜を無視して、斡由は州司馬《しゅうしば》に向かう。
「なんとか民の離反を防ぎ、州城を死守せよ。──わたしは関弓に台輔をお連れし、ことの顛末《てんまつ》を王に報告して真に罪あったのは誰であったか、裁量をお願いしてくる」
六太は呆然と斡由を見た。
(──傷つけるものは無視するぞ。傷を隠すためにならなんでもするぞ)
六太を振り返った斡由の面には苦渋《くじゅう》の色がにじんでいる。臣下に裏切られ、奸夫《かんぷ》によって陥《おとしい》れられた悲運の令尹、観客がいれば信じたろう。そのようにしか見えない。
「台輔、不遇をおけいたしましたが、必ずわたくしが一命に代えても関弓へお連れいたします。確かに奸臣《かんしん》につけいられたのはわたしの不明、いかようなお裁きをもお受けいたしますが、なにとぞ元州諸官にはお咎《とが》めのなきよう、台輔からも王にお願いくださいませんでしょうか」
六太はその悲嘆にくれた男を見る。
「斡由……それがお前の本性か……」
斡由は怪訝《けげん》そうにした。
「民のために起《た》つといいながら、あえて堤《つつみ》を切って勝利にこだわる。自らが主《あるじ》だと言い放ちながら、更夜に白沢に全ての罪をかぶせる。……それがお前か」
言って六太は自失した風情《ふぜい》の諸官を見渡した。
「これが元魁を幽閉してまで首座につけたお前たちの主か」
誰も言葉がないのを見て、六太は踵《きびす》を返した。
「台輔、どちらへ」
「……関弓へ帰る。共はいらない。王にはおれから顛末《てんまつ》を説明する」
振り返りもしない六太を隅から見守って、更夜は息を吐いた。
──瓦解《がかい》する。
ほとんどの諸官は斡由の清廉《せいれん》なるを信じている。信じればこそ、これまで更夜の手にかからず生き延びてこれたのだ。理想高いおめでたい官吏たち。だが、その非に気づけば、彼らのほとんどが斡由の許《もと》での栄華《えいが》よりも忠義よりも、道義を選ぶに躊躇《ちゅうちょ》はすまい。
なるほど、と六太を見送りながら斡由は口元を歪《ゆが》めた。更夜は見守るに耐えず、妖魔の首を抱いて俯《うつむ》いた。
「台輔までがわたしを罪に陥《おとしい》れようというわけだ……」
六太はこれには返答をしなかった。いっさいが無駄なことに思えたからだ。
白沢、と斡由は州宰を振り返った。
「──まさかお前、王や台輔と謀《はか》って」
「──卿伯!」
「そうなのだな? そもそもこれは台輔らと謀ったことなのだな? 王はわたしの人望あるを妬《ねた》まれて、あえて逆賊となるようにお前に唆《そそのか》させた。……そうなのだな?」
斡由、と六太は溜め息をついた。
「王はそんなことをしない。そんなことをする必要などないからな」
「わたしが六官の、王の暗愚《あんぐ》なるを嘆く声を知らないとでもお思いか。……ああ、本当にわたしはなぜもっと己《おのれ》を信じなかったか。かつて必要以上に己を恥じず、蓬山《ほうざん》に昇山《しょうざん》して天意を諮《はか》っておれば」
「無駄だ」
六太は低く吐き捨てた。
「お前は玉座《ぎょくざ》に君臨する器ではない」
「──わたしが王に劣るというのか!!」
「尚隆《しょうりゅう》に比べれば、お前は屑《くず》だ」
六太は言って踵《きびす》を返し、部屋を出ようと歩き始める。ふと振り返って、斡由とその背後に控える小臣《しょうしん》らを見た。
「言っとくが、これは尚隆を誉《ほ》めてるわけじゃないからな!」
白沢はそう怒鳴って去る麒麟《きりん》と、己《おのれ》がつい先ほどまで主《あるじ》と信じてきた男の顔を見比べた。悲しく息を吐き、斡由の背後、小臣らに命じる。
「お前たちに少しでも道を正す気があるなら、卿伯を捕らえなさい……」
言って、白沢は目を見開いた。斡由の背後に控える小臣ら、その中のひとりに見覚えがないか。
「まさか──」
その男はにっ、と笑う。そんなばかな、と首を振る白沢の目の前で、当のその男が困惑した表情の小臣らの間を抜け、まっすぐに斡由に歩み寄る。
斡由は近づいてきた小臣のひとりを見た。
「お前には、善悪が奈辺《なへん》にあるか分からぬか」
いえ、と小臣は笑って膝《ひざ》をつく。
「ちょっとお知らせしといたほうがいいかと」
知らせ、と斡由は首をかしげた。
「わたしに何を? ──お前、州師から登用した者だったな」
「はあ、おかげさまで」
「そうか──で、何を知らせると? お前、名は何という」
「小松尚隆《こまつなおたか》と」
耳慣れない音《おん》に斡由は首をかしげた。男は立ち上がる。
「延王《えんおう》尚隆《しょうりゅう》と呼ぶ者もいる」
身構えるすきあらばこそ、足を踏み出しざま抜刀《ばっとう》した男は、迷うことなく切っ先を斡由の喉《のど》に構えた。
「──お前……!」
「更夜、動くな。斡由の首に切っ先が届くぞ」
思わず身構えた更夜は、視線を受けて凍《こお》りついた。
「誰も動くことはまかりならぬ。武器を置けとは言わぬゆえ、壁まで退《さが》っていろ」
言って尚隆は戸口で足をとめた六太をわずかに振り返る。
「なかなか心地よい言葉を聞かせてもらった」
「誉《ほ》めたわけじゃねぇって言ったろーが!」
尚隆は切っ先を斡由に当てたまま声を上げて笑う。
「貴様……なぜ」
つぶやいた斡由を尚隆は見た。
「お前は天意を試したかったのだろう。──その機会をやる」
「……なに」
「天意のありかを知りたいのなら、なにも民を巻きこまずとも、俺とお前が打ち合ってみればすむことだ。──違うか、斡由」
斡由はぎりと尚隆を睨《にら》む。尚隆は軽く笑い、棒立ちになっている諸官を見やる。
「聞け。──動くな」
逃げようというのか、斡由を助けようというのか、身動きした幾人かがぴくりと身を強《こわ》ばらせた。
「俺は天意を受けて玉座《ぎょくざ》に就《つ》いた。それが不満だと言うなら咎《とが》めはせん。だが、王を誅《ちゅう》するは、すなわち天を誅することだ。天意を確かめたいというなら、兵を動かす必要などない。兵糧《ひょうろう》ならまた蓄《たくわ》えれば良いが民はそうはいかぬ。消費された命は翌年の実りで補いがつくような性質のものではなかろう。ここで斡由が俺を斬《き》れば、あとはお前たちの天下だ。雁《えん》を再興するなり、滅ぼすなり好きにすればよかろう。それが天意なのだろうからな」
言って尚隆は更夜に目をやる。
「更夜──できればお前の妖魔を動かすな。飼い主の前で斬《き》りたくはない。お前もだ。斬れば六太に恨《うら》まれるからな」
尚隆は笑んで、今度は誰にともなく言う。
「斡由のために命を捨てたいという忠義の者があれば、斡由の周りを固めよ。誰ぞ斡由のために武器を持ってこい。斡由の得意なものにしてやれよ」
尚隆は言ったが、その場には動く者がなかった。
「どうした? 斡由を守る者はないのか」
さらに促《うなが》しても、やはり誰ひとり動かない。尚隆は薄く苦笑する。
「なるほど。──斡由、よくもここまで見捨てられたものだな」
「おのれ……」
「せめて得物ぐらいは持たせてやれ」
尚隆が小臣のひとりに目を向けると、迷ったようにして小臣は斡由の側に進み出、腰に帯びた太刀《たち》を押しつけるようにして斡由に渡す。それを握る斡由の手は震えている。
「──おそれながら、主上」
白沢が平伏した。それにならって、その場の全てが叩頭《こうとう》する。
「主上──これが恥ずかしながら、小州|謀反《むほん》の顛末《てんまつ》でございます」
「たしかにあまり見栄《みば》えのする顛末ではなかったな」
「はい。──ですが卿伯はもはや主上の御前《ごぜん》に討《う》たれたも同然でございます。無用の争いをお厭《いと》いになられるのなら、これまでに。なにとぞ卿伯には温情ある処断を賜《たまわ》りますよう」
なるほど、と尚隆は苦笑する。斡由を見れば、斡由は剣を下げてその場に膝《ひざ》をついた。
「州城を開城せよ、斡由。州師をいったん解散させよ」
「たしかに……承りました」
斡由は深く頭を垂《た》れる。誰か、と尚隆は背後を見やった。剣を納めて斡由の側を離れる。六太はそれを妙にひやりとした気分で見た。
「いちおう、捕らえておけ。温情とやらを大盤振る舞いしてやるから、見張りを立てて自傷させぬようにな」
その背後、す、と斡由が太刀を振りかぶった。
「──尚隆!」
とっさに振り向き、柄《つか》に手をかけた尚隆と、太刀をかざして大きく踏み出した斡由と。その間、わずかに三歩の距離。斬りかかった斡由が早いか、迎え撃つ尚隆が早いか。
その場の誰もが息を呑《の》んだ。
「──悧角《りかく》!」
「──ろくた!」
叫んだのは更夜と六太がほぼ同時、三歩の距離が全てを決した。
──ふたりが駆け寄るよりも、悧角のほうが早かったのだ。
斡由は悧角の顎《あご》に捕らえられて血泡《ちあわ》を噴いた。
六太はそれから目をそらして更夜を見る。叫んだのは同時、──だが、更夜は妖魔を止めるために呼んだ。救命を求めた声と殺戮《さつりく》を留めた声が、斡由と尚隆の命運を分けたのだ。
硬く重い音がして斡由の太刀《たち》が落ちた。悧角は正確に斡由の喉笛《のどぶえ》を噛《か》みきって速やかに離れた。悧角が割って入るのを見て、とっさに跳《と》び退《すさ》った尚隆は改めて床に落ちた斡由の側に歩み寄った。
不幸にして斡由は仙、首の半ばまでを噛み裂かれて、それでもなお息があった。己《おのれ》の血糊《ちのり》の中に横顔を埋め、虚《うつ》ろに目を上げた斡由はいったい何を見たろうか。
「……いま、楽にしてやる」
尚隆は言って、太刀を構えた。一刀両断に振り下ろす。首を断ち切り、床を噛んだ鋼《はがね》の音が、その場の誰の耳にも届いた。