「お前はいい子だ。ぐずぐず泣かないのが気に入った」
男はどこまでも快活で、勝手にしゃべりながら大股《おおまた》にどんどん歩いていく。
「東京はりっぱな街だぞ。お前、瓦斯灯《ガスとう》なんて見たことないだろう。お屋敷に行くのに鉄道馬車にも乗れる。鉄道馬車って知ってるか?」
鈴は声を聞き流し、後ろを振り返らないようにしながら、男が足元に引きずった影を懸命《けんめい》に追いかけた。引き離されては小走りに追いかけ、男の影の頭のあたりをえい、と踏みにじる。それを繰り返して峠を越えて、下りにかかったところで散切《ざんぎ》り頭《あたま》の影がとまった。男が空を見上げたのだ。
背後から雲が追いかけてきていた。鈴が踏んだ男の影も薄くなってしまっていた。
「——降るかな」
振り返った背後、山間《やまあい》の村から続くこんもりと木の茂った斜面を、影が昇ってきた。水が追ってくるようにして雲の影が男と鈴の影法師《かげぼうし》に追いつくと、生温《なまぬる》い風がさあっと吹いて、タッ、と雨粒が道を叩《たた》いた。
「こりゃあ、まいった」
男は言って、峠道の端にそびえる大楠《おおくす》のほうへ駆《か》け出した。雨宿りするのだと、鈴も風呂敷《ふろしき》包みを胸に抱いてその後を追う。ばたばたと大粒の雨が頬《ほお》や肩を叩いて、枝の下に駆けこむまでの短い時間のうちに斜めに突き刺さる雨に変わった。
鈴は首をすくめて、大楠の根元に走りこんだ。地面に張り出した根は同じように雨宿りをし、あるいは休息した旅人の足に磨《みが》かれて、どれもつるりとしている。そこに雨粒がかかって、鈴の足を滑《すべ》らせた。
ああ、滑るな、と鈴が思ったとたん、足元を大きくすくわれた。つんのめって踏みしめた足元に次の根があって、それに爪先《つまさき》を引っかける。転《ころ》びかけてなんとか踏みとどまった足がさらに滑って、鈴は踊るようにして崖《がけ》っぷちまでたどり着いてしまった。
「おい、気をつけ——」
男の声は途中から叫びに変わった。大楠の根が途切れた先は、崖と呼んでもいいような急斜面になっていて、鈴はそこから転がり落ちようとしていたのだ。
鈴は荷物を投げ出して手を伸ばした。指は男の手にも、付近の枝や叢《くさむら》にも届かなかった。崖っぶちから身体が投げ出されて、とたんに太い雨足に叩かれた。どうどうと滝が落ちるような雨音がしていた。