崖は陸を切り取ったようにそびえていた。すとんと水面に落ちこんで、やや内側にえぐれている。鈴の家の近所の山の、奥深いところに滝があったが、今見ている崖は、その滝壺《たきつぼ》に面した崖《がけ》よりもはるかに高かった。それが水面に浮いた床《ゆか》を大きく抱えこむようにして、左右に伸びているのだった。
床の部分を除けば、断崖《だんがい》の麓《ふもと》には岸辺というものが存在しなかった。鈴のいるこの場所だけ大きな大きな筏《いかだ》のような床が浮かべられて、崖の下から水面に張りだしている。そこに船がつながれていて、床の奥、床と崖が接するあたりに小屋が並んでいた。
なるほど、と鈴は思う。岸がないから、岸を作ってあるのだ。けれども、どうやってこの絶壁を登るのだろう、と首をかしげてよく見てみると、高い崖には石段や梯子《はしご》が続いていた。どうやらそれを登るようだった。
「あんな梯子を登るなんて、目がまわりそう」
鈴がつぶやいたとき、男たちが鈴を振り返った。首をかしげる鈴に崖の上を示す。床を崖のほうへ歩いていく男たちに連れられて、鈴は崖に刻《きざ》まれた石段に足をのせた。
それが苦行の始まりだった。鈴は崖を登っていく。何度も座りこみそうになるのを、後ろから押され、前から引かれ、背後を振り返ってあまりの高さに目をまわしそうになるのをなだめられして、やっとのことで崖の上までたどり着いた。
「海辺に住むひとは、大変なんだ」
べたりと座りこんで鈴が言うと、男たちは笑って鈴の背中や肩をてんでに叩《たた》いてくれた。言葉は分からないが、おそらくねぎらってくれているのだろうと思う。
「野良《のら》仕事のほうがずっと楽だったなあ」
床のあちこちに投網《とあみ》が干してあったので、男たちが漁に出ていたらしいことは想像できる。魚を獲るたびにこの崖を登り降りするのでは、その苦労は大変なものだろう。田圃《たんぼ》の手伝いをするのも大変だったが、すくなくとも畦《あぜ》ぞいに歩いていけた。
崖の上には鈴の背丈《せたけ》よりもずっと高い、石を積みあげた塀《へい》が続いている。その一方に入り口があってそこに招かれたので、萎《な》えそうになる足を引きずって男たちの後に続いた。
塀の内側は長屋のような小屋が並ぶごく小さな村だった。そのうちの一軒に連れていかれて、鈴は老婆《ろうば》の手に身柄を渡された。潮《しお》が垂《た》れた着物を脱がされて、土間においた台の上に敷かれた布団《ふとん》を示されたので、おとなしくそこに横になった。老婆は鈴の着物を持って小屋から出ていく。それを目線で見送って、鈴は目を閉じた。すっかり疲れ果てていた。
——ちゃんと東京に行けるかなあ。
墜落《ついらく》するように眠りに落ちながら、鈴は思う。
——ちゃんと青柳さまのお屋敷に行かないと。あたしは売られてしまったんだもの。
もう他に行くところも帰るところも、鈴にはないのだから。
鈴はもちろん、ここには東京などという街はありはしないことを知らなかった。
鈴が溺《おぼ》れたのは虚海《きょかい》。
鈴がたどり着いたここを、慶東国《けいとうこく》という。
——そして長い歳月が過ぎる。