健仲韃はそもそも軍事を司《つかさど》る夏官《かかん》、先王|斃《たお》れた後に峯麟《ほうりん》の選定を受けて峯王を継《つ》いだのだった。
芳国の国暦《こくれき》で永和《えいわ》六年、仲韃の治世が三十年あまりに及んで、芳国王宮|鷹隼宮《ようしゅんきゅう》に十万の兵が殺到した。仲韃の圧政に耐えかねて蜂起《ほうき》した、八州諸侯の州師《しゅうし》である。
芳国首都|蒲蘇《ほそ》の門は、志を同じくする市民によって内側から開かれた。たちまちのうちに王宮の深部、後宮にまで入りこんだ八州師は、三百あまりの小臣《ごえい》と壮烈なる戦いを演じた末に峯王仲韃を討《う》ち取った。
「——あの歓声は」
祥瓊《しょうけい》はその鬨《とき》の声を母親の腕の中で聞いた。仲韃の王后《おうごう》佳花《かか》、その一女、公主《こうしゅ》祥瓊、そして不調を訴えて横になっていた峯麟とが後宮の中で息をひそめていた。
「——表から聞こえるわ。——お母さま、あの声は」
祥瓊は齢《よわい》十三、仲韃と佳花が掌中《しょうちゅう》の珠《たま》と尊んで溺愛《できあい》した娘である。聡明で利発、清麗|婉美《えんび》、鷹隼《おうきゅう》に一瓊《ほうぎょく》あり、と唱《うた》われたその少女はしかし、恐れに面《おもて》を歪《ゆが》めていた。
「あれは——まさか」
諸州で蜂起した民、蒲蘇の周囲に結集した戈剣《ぶき》のきらめき、宮中にまで響く王を呪《のろ》う歌。王宮へなだれこんだ青灰色《せいかいしょく》の鎧《よろい》、——そして、この鬨の声。
「まさか、お父さま——」
「いいえ——いいえ!」
佳花は祥瓊を抱く腕に力をこめた。
「そんなことは」
ありえない、と佳花が叫ぼうとした刹那《せつな》、血の臭気に酔ってぐったりと身を横たえていた峯麟が悲痛な叫びをあげた。
「峯麟——」
「王気《けはい》が——ああ、王気が絶えてしまわれた」
峯麟は蒼白《そうはく》の顔をさらに白くする。と、同時に後宮の最奥にあるその房室《へや》の、扉《とびら》が音をたてて開いた。
踏みこんできた彼らの血塗られた鎧《よろい》。先頭に立つ若い男の徽章《しるし》は星辰《せいしん》、それは州侯の印《しるし》ではなかったか。
「——無礼な!」
佳花《かか》が声をあげた。
「ここをどこだと思っているのです。仮にも王后《おうごう》、台輔《たいほ》を前に、許しもなく」
男は精悍《せいかん》な顔を小揺るぎもさせなかった。無言で佳花の前に右手に提《さ》げたものを投げ出す。重い音をたて、点々と血糊《ちのり》をまいて、それは祥瓊《しょうけい》の足元に転《ころ》がって恨《うら》めしく宙をにらんだ。
「——お父さま!」
不死を約束された王といえども、馘首《くびき》られれば生きながらえることはできない。祥瓊も佳花も悲鳴をあげて峯麟《ほうりん》の横たわる榻《ながいす》まで退《さが》った。
「父の、夫の首でも怖いか」
男は皮肉げな笑みを浮かべる。佳花はその面をにらみすえた。
「お前——恵侯《けいこう》——いや、月渓《げっけい》!」
恵州侯月渓は冷ややかに声を落とす。
「峯王は我らが弑《しい》したてまつった。王后も公主にお別れを告げられよ」
「なにを——」
声をあげた佳花の腕にしがみつき、祥瓊は大きく震えた。
「過酷なる法をもって民を永《なが》く虐《しいた》げた王と、その王に讒言《ざんげん》して罪なき民を誅殺《ちゅうさつ》せしめた王后。どちらにも民の恨《うら》みを思い知ってもらいたい」
「王は——王は民のために良かれと——」
「貧困に喘《あえ》ぎ、思いあまって一個の餅《もち》を盗んだ子供にまで死を賜《たまわ》る法が民のためか。税穀が一|合《ごう》欠けても死罪、病に倒れ、夫役《ぶやく》を一刻休んでも死罪。民の恐怖はいまのお前たちの比ではなかった」
月渓が手を挙《あ》げる。背後の兵が佳花に駆《か》け寄り、その腕から祥瓊をもぎとる。祥瓊は叫び、佳花もまた悲痛な声をあげた。
「他の婦女の美貌《びぼう》と才気を妬《ねた》み、あるいは他の女子の公主よりも利発なるを妬み、罪を捏造《ねつぞう》し讒言し、国土には挽歌《ばんか》が満ちた。家族の骸《むくろ》を前にした悲嘆が分かったか」
「おのれ——月渓」
吐《は》き出す佳花には構わず、月渓は兵に取り押さえられ身もがく祥瓊を振り返る。
「公主にもよく見ていていただきたい。己《おのれ》の家族が刑場に引き出され、目の前で馘首《くびき》られる苦痛がどれだけのものか」
「やめて! お願い!——お母さま!!」
祥瓊《しょうけい》の悲鳴は、その場の誰の心を動かすこともできなかった。
目を見開き、喘《あえ》ぐ祥瓊の目の前で月渓《げっけい》の腕が振りかぶられる。あまりの衝撃に目を閉じることさえできなかった祥瓊は、母親の命が失われるその瞬間を見た。
——転々と跳《は》ねた首は叫びの表情を凍《こお》らせたまま、虚空《こくう》ののぞく口が声なき悲鳴をあげたまま、峯王|仲韃《ちゅうたつ》の首に寄り添う。
祥瓊の瞼《まぶた》も喉《のど》も、その瞬間に凍《こお》りついた。
月渓は淡々とした視線を祥瓊に投げて、峯麟《ほうりん》の横たわった榻《ながいす》へと歩み寄る。
「——台輔」
峯麟は虚《うつ》ろな目で月渓を見上げた。
「二代にわたって暗君を選んだあなたに対する、民の絶望を理解していただきたい」
峯麟はまじまじと月渓を見上げ、やがて静かにうなずいた。
月渓は深く拝礼し、そして血|濡《ぬ》れた直刀《ちょくとう》をかざした。
——峯王および、峯麟|登霞《とうか》。
芳国でひとつの王朝が終わった。