その雲海に一条の雲が伸びていく。淡く虹色《にじいろ》に輝く細長い雲が東を指して流れていった。——瑞雲《ずいうん》である。
なだらかな丘陵地《きゅうりょうち》に広がる農地、畦《あぜ》の草を刈《か》る娘がひとり、これに気づいた。
「桂桂《けいけい》、見て。瑞雲が行くわ」
蘭玉《らんぎょく》は汗《あせ》をぬぐい、ぬぐった手をかざして眩《まぶ》しい夏の空を見上げる。
彼女の側《そば》で刈りとられた草を集めていた子供は、姉の視線を追ってきょとんと空を見上げ、南の空に綺麗《きれい》な雲が伸びるのを見た。
「瑞雲ってなに?」
「新王が王宮へお入りになるときに現れる、めでたい雲のことよ」
へえ、と桂桂は空を見上げる。姉弟が空を見上げるのにつられて、田で同じようにして夏草を刈っている人々がひとりふたりと顔を上げた。
「新しい王さまが現れたの?」
「そう。前にいた悪い王さまが死んで、次の王さまが現れたの。蓬山《ほうざん》から堯天《ぎょうてん》にある王宮に向かっていらっしゃるのよ」
民はいつも、斃《たお》れた王に対して容赦《ようしゃ》がない。王とは民にとって神だが、この神なる王とは、自分たちに賢治《けんち》を恵んでくれる王を指すものだからだ。
「蓬山は、女神《にょしん》さまのいる山だよね。世界の真ん中にある」
「そうよ。よく知っていたわね」
桂桂は少し胸を張る。
「知ってらい。蓬山は台輔《たいほ》が生まれる山なんだよ。台輔はね、麒麟《きりん》なんだ。麟麟は、王さまを選べるたったひとりのお方なんだよ」
桂桂は再び、のけぞるようにして空を見上げた。
「蓬山の女神さまはヘキ——ええと、ヘッキ……」
「碧霞《へきか》玄君《げんくん》」
「そうそう。碧霞玄君|玉葉《ぎょくよう》さまっていうんだ。——で、蓬山の奥の華山《かざん》には、いちばんえらい女神さまが住んでるんだ。西王母《せいおうぼ》っていうんだよね」
「うん。そう」
「崇山《すうさん》には天帝が住んでいらして、この世のことを全部見守ってる」
そして、と子供は頭上を見上げた。瑞雲は長く尾をひき、一路東を指している。
「王さまが国を治めるんだよね。悪い王さまがいなくなって、新しい王さまが現れたから、ぼくたちは家に戻れたんでしょう?」
そう、と蘭玉《らんぎょく》は弟を抱き寄せる。畦《あぜ》にたたずんで瑞雲を見上げる人々と同じように、あまたのものを胸中に抱きこんで。
——景王舒覚《けいおうじょかく》。国を荒廃せしめた無能の先王。特にその末世、慶《けい》の女という女が国外追放を命じられた。蘭玉もまた、弟の手を引いて国の外を目指さざるをえなかった。多くの娘は家の中に隠され、あるいは男装し、役人や兵士に大金を掴《つか》ませることによってこの禍《わざわい》をやりすごそうとしたが、蘭玉は庇《かば》ってくれる父母を、瑛州《えいしゅう》を襲った大寒波で亡くしていた。
荒れた国、父母を失い、国から追われ、弟とふたり海から他国に逃げようとした。同じように国から追い出され、あるいは荒れ果てた国から逃げ出そうと街道を急ぐ人々。その旅の途中で、里祠《りし》に新王即位の旗が揚《あ》がった。黒地に力強く飛翔する昇龍《しょうりゅう》、昇る日月|星辰《せいしん》——王旗《おうき》である。
これで国が平和になる、豊かになると、安堵《あんど》の胸をなでおろし、蘭玉は再び弟の手を引いて住み慣れた里《まち》に帰ったのだ。だが、なにかがおかしい。新王の選定がなれば里祠に飛龍を描いた龍旗《りゅうき》が揚がり、正式に登極《とうきょく》すれば王旗が揚がるものなのだが、その龍旗を見た覚えがない。人に訊《き》けば、やはり龍旗は揚がらないまま、しかも里祠によって王旗が揚がったり揚がらなかったりしたという。
老人たちはいぶかしんだ。新王が登極すれば、ぴたりと天災がやむものだが、いつまで経《た》っても天災がやまない。そのうえに、新王だ、いや偽王《ぎおう》だと争って起こった戦火。——その戦いの行く末がどうなったのか、王都から遠く離れて暮らす者には詳《くわ》しく知る術《すべ》がない。
やはり偽王だった、と噂《うわさ》が流れた。正しき王が起《た》って、これと戦っている、と。
そして揚《あ》がった龍旗《りゅうき》。東へ伸びる一条の瑞雲。
——本当に王がお起ちになったのだ。
蘭玉《らんぎょく》は東へ去る瑞雲を見送る。
「……どうか新王が、あたしたちに幸いを恵んでくださいますように」
畦《あぜ》にたたずんだ人々は同じくうなだれ、ひとしくその瑞雲を礼拝する。