「玉葉——!」
秋風に乗って遠くから聞こえる声に、少女は枯れ草の中で顔を上げた。軽く眉《まゆ》をひそめたのは、屈《かが》んだ腰が痛んだせい、そしてその名が疎《うと》ましかったせいだった。
——祥瓊《しょうけい》。
かつては美しい呼び名があった。玉葉などという凡百《ぼんぴゃく》の陳腐《ちんぷ》な名ではなく。
父母の血に染まった王宮から坂県は新道《しんどう》の里《まち》に移されて三年近く、珠《たま》のように白かった肌《はだ》は陽《ひ》に灼《や》け、雀斑《そばかす》が浮いている。白桃の頬《ほお》は削《そ》げた。指には節が立ち、手も足も筋張り、紺青《こんじょう》の髪は陽に晒《さら》されて灰味がかってしまった。紫紺の瞳《ひとみ》でさえもが、生気を失い、淀《よど》んだ色に変じてしまったかのようだった。
「玉葉、どこなの! 返事をおし!」
女の甲高《かんだか》い声を聞いて、棒立ちになっていた祥瓊《しょうけい》は、ここです、と声をあげる。爪先《つまさき》立って乾いた茅《かや》の間から顔を出した。
顔を見るまでもなく、その癇性《かんしょう》の声で分かる。沍姆《ごぼ》だろう。
「茅を刈《か》るのにいつまでかかっているの。他の子はみんなもう戻ったというのに」
「——いま、終わりました」
沍姆は茅をかきわけてやってくると、祥瓊がまとめた茅の束を見て鼻を鳴らした。
「確かに六束だわねえ。にしても、ずいぶん小さな束だこと」
「でも……」
祥瓊が言いかけると、ぴしりとした声が飛んできた。
「口答えをするんじゃない。いつまでも何様のつもりだね」
沍姆は声を低める。
「ここは宮城《きゅうじょう》じゃないんだ。お前はもうただの孤児《こじ》だってことを忘れるんじゃないよ」
もちろん、と祥瓊は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
——一度だって忘れたことなどない。日に何度もそう言って罵《ののし》られれば、忘れようにも忘れられない。
「少しは殊勝《しゅしょう》にしたらどうだい。あたしが大声をあげれば、里《まち》じゅうの連中があんたの首を斬《き》りにくるんだってことを忘れるんじゃないよ」
祥瓊は黙りこむ。とたんに返事は、と鋭《するど》い声が飛んできて、はい、と小さく答えた。
「それだけかい」
「……ありがとうございます」
沍姆は口元に皮肉げな笑みを浮かべる。
「もう六束だ。夕餉《ゆうげ》までにおしよ。遅れたら食事を抜くからね」
「……はい」
すでに中秋の陽《ひ》は傾いている。もちろん、これから夕餉までに六束の茅を刈ることなど不可能に近い。
沍姆はひとつ鼻を鳴らして、茅をかきわけ、戻っていく。その背をわずかに見送って、祥瓊は足元に置いた鎌《かま》を掴《つか》んだ。その手——茅で切って傷だらけの、爪先には泥のつまった。
祥瓊は恵州に連行され、その辺境の山村で戸籍《こせき》を与えられた。父母を亡くしたことにして、付近の里家《りけ》に送りこまれた。里家とは各里にひとつある、孤児や老人らのための施設である。その世話役である閭胥《ちょうろう》が沍姆《ごぼ》だった。
沍姆の他には老人が一人、子供が九人、沍姆もその他も最初は祥瓊《しょうけい》に優《やさ》しかった。
子供たちは語り合う。いかにして彼らが父母を亡くしたか。すでに斃《たお》れた王へ向けての恨《うら》みの声。祥瓊はこれに加わることができず、唇《くちびる》を噛《か》んでうつむいているしかなかった。どうして両親を亡くしたの、と訊かれても、なんと答えればいいのか分からない。
祥瓊はまた、もともと富裕の家に生まれ、農村の暮らしが分からない。使用人のいない暮らし、自分の手で土を耕し、布を織る暮らしを間近で見るのは初めてのこと、いきなりそこへ投げこまれても右も左も分からない。なにもかもがあまりに隔たっていたために、しぜん里家《りけ》の暮らしになじめず、なじめない祥瓊を里家の者は疎外《そがい》した。鍬《くわ》の使い方も知らない莫迦《ばか》だと、里家の子供たちは言う。鍬を見たこともなければ、触《さわ》ったこともなかったのだと、言い訳することはできなかった。
現在祥瓊の戸籍《こせき》上の父母は、この新道《しんどう》の里《まち》に近い山林の中でぽつんと暮らす浮民《ふみん》の夫婦だった。浮民とは、国から与えられた土地を離れ、どの里にも属さなくなった様々な者たちのことをいう。たとえば侠客《きょうかく》、犯罪者、祥瓊の戸籍上の父母のような隠遁者《いんとんしゃ》。ふたりは新道からさほど遠くない山の中で、ひっそりと炭を焼いて暮らしていた。土地とも土地の人々ともなんの関係もない、まったくの浮民だった。そして死んだ。刑死《けいし》したのだ。
祥瓊の父、峯王仲韃《ほうおうちゅうたつ》は、浮民をなんとか土地に戻そうと、何度も布告を出し、法を設けた。法の保護を拒絶するということは、すなわち法に対する義務もまた拒絶するということだ。浮民は堕落《だらく》と犯罪の温床であり、彼らの無軌道な生活は実直に生きる人々に堕落をそそのかし犯罪を勧《すす》める。土地に帰って実直に生きよ、と仲韃は何度も促《うなが》した。いっこうに浮民が従わないために、これを処罰せざるをえなかったのだ。
祥瓊をこの境遇に落としこんだあの男——月渓《げっけい》は、祥瓊をその死んだ浮民の夫婦の娘として戸籍に入れた。遠くの里の里家に預けていた子供を、その死の直前に引き取ったということにしたのだ。
だが、どうしてだか、沍姆は気づいた。里家に任された少女が、仲韃の娘——死んだはずの公主《こうしゅ》だと。
「もしもそうなら、おっしゃってください。ここの暮らしはお辛《つら》いでしょう」
沍姆にある日そう言われ、祥瓊は泣いた。実際、土を耕し、家畜を養う生活は祥瓊にとってあまりに辛かった。
「仮にも公主さまがこんな田舎《いなか》で襤褸《ぼろ》を纏《まと》っているなんて。蒲蘇《みやこ》の一瓊《ほうぎょく》、鷹隼《おうきゅう》の宝珠とまで言われたお方が」
顔を覆《おお》った祥瓊に、沍姆は甘く言い添える。
「わたしの知り合いに、恵州の都の豪商があります。いまは亡き峯王を、それはお慕い申しあげておりました」
——祥瓊には抵抗できなかった。ひょっとしたらこの土まみれになる生活から解放され、以前のようなとは言わない、現在のこれより少しでもましな暮らしができれば、と惑《まど》わされてしまった。
「——ああ、沍姆《ごぼ》、助けてください」
祥瓊《しょうけい》は泣き崩《くず》れた。
「恵侯月渓《けいこうげっけい》がお父さまお母さまを殺して、わたくしをこんな目に。月渓はわたくしが憎《にく》いのです」
「——やはりそうなの」
沍姆の声は底冷えがするほど冷たく、祥瓊ははっと顔を上げた。
「お前があの、豺虎《けだもの》の娘」
きりいと歯がみする音を聞いて、祥瓊は己《おのれ》の愚《ぐ》を悟《さと》った。
「民を虫けらのように殺した——あの」
それは民が法を破ったからだわ、という反駁《はんばく》を、祥瓊は気圧《けお》されて呑《の》みこんだ。
「わたしの息子《むすこ》を殺した——刑場に引き立てられる子供を哀れんで、刑吏《やくにん》に石を投げた、それを咎《とが》めて殺した——あの豺虎の王の」
「でも——それは」
「お前が殺したも同然だ」
祥瓊はあわてて首を振った。
「いいえ、わたくしは知らなかったんです。お父さまがなにをしているか、なんて」
事実、祥瓊は知らなかった。父がなにをし、母がなにをしているのか。後宮奥深くに隠され、幸せにくるまれて、世間もそのようなものだと思っていた。城下に兵が結集して不穏な空気が流れ、それで初めて父王が恨《うら》まれていることを知った。
「知らなかった、だって? 仮にも公主が朝廷でなにが行われているか知らなかったのかい。あれほど国じゅうに満ちた弔《とむら》いの歌を、恨みの声を、聞きもしなかったというのだね」
「わたくしは、……本当に」
「おめおめと生き延びて——お前のその薄汚い口に入る食いぶちが、どこから出ているか知っておいでかい。あれはお前たちに虐《しいた》げられ、虐げられして、それでも道を踏み外さず、まっとうに正直に働いたこの里《まち》の者が実らせたものなんだよ」
「——だって本当に、知らなかったのだもの!」
「こんな女を食わせるために働いているなんて!」
——ふつり、と鈍い痛みを感じて祥瓊は我に返った。歯のこぼれた鎌《かま》が、祥瓊の指先を掻《か》き切って、小さく朱珠を生じさせていた。
「……つっ……」
痛いのは指だろうか、それとも胸のほうだろうか。
「……本当になにも、知らなかったのよ……」
沍姆《ごぼ》が露骨に祥瓊《しょうけい》を嫌うから、里家《りけ》の他の者も、里《まち》の者も意味もなく祥瓊を嫌う。他の子の倍も三倍も働かされ、人より遅い、愚図《ぐず》だと罵《ののし》られる。
「わたしがなにをしたっていうの……」
本当に知らなかった。父母は決して祥瓊に朝廷をのぞかせなかった。宮城《きゅうじょう》の外へも出してはもらえなかった。国がどんなありさまだか、知る術《すべ》などなかったというのに。