「——まったく、よけいなことを」
「もう少し言いようはなかったのかい」
「よりによって無理難題ばかり。笨媽が播《ま》いた種だ、笨媽に刈《か》らせるがいいよ」
「下仙《げせん》の笨媽が五山まで行ってこれるかい。帰ってきた頃にゃあ、とっくに洞主さまがお戻りだ」
仙にも格というものがある。梨耀《りよう》でさえ格は三位、その下僕《しもべ》ともなればかろうじて仙籍に名前があるていど、ろくな技も持っていない。特に笨媽《ほんま》と呼ばれる娘は、下仙の中でも最下位の仙だった。
「いい迷惑だ。この寒い中、五山へ玉膏《ぎょっこう》を探しに行って、次は虚海《きょかい》へ箴魚《しんぎょ》を探しに行けって言うのか。おまけに瑤草《ようそう》だと? 冬が来ようってこの季節、どこに行きゃあ瑤草にお目にかかれるって言うんだ」
「せっかく洞主さまがお出かけで、息をつけると思ったのに」
「掃除と塗り替えは笨媽にやらすさ。そのくらいの役には立ってもらうぞ」
咎《とが》める視線が秘中して、娘はその場を逃げ出した。
彼女は庭の奥に走りこむ。崖《がけ》をなした庭の隅、松の老木の根元で泣いた。
あんなふうに梨耀に言われて、他にどう答えればよかったというのだろう。他の下僕たちだって、同じように答えたに違いないのに。自分がへまをしたのじゃない。そもそも梨耀は自分の下僕に、留守中のんびりと過ごさせたくなかったのだ。それはいかにも梨耀らしいふるまいで、この洞府の誰もがそれを分かっているはずなのに。
どうした、と背後から声がかかる。これは庭番の老爺《ろうや》のものだ。
「気にするな。みんなお前に当たってみただけだ。洞主さまには逆らえないから、お前に当たって憂《う》さを晴らしているだけだ、木鈴《もくりん》」
彼女は首を振った。
「あたし……そんな名前じゃない……っ」
すず、と呼ばれていたのだ、あの懐《なつ》かしい国では。歩き坊主が教えてくれた文字はただ三字、「大木鈴《おおきすず》」と。それを聞いた者が彼女のことを木鈴と呼ぶようになったけれども、そしてそれは笨媽などという侮蔑《ぶべつ》も露《あらわ》な名前よりも数倍ましな名前だけれども、それでもそれは彼女の名ではない。
まろやかな形の山々、そこにいた家族。暖かな会話、あまりにも多くの失ったもの。
彼女がそこから流されてきたのは、もう百年も前のことだ。人買いに連れられて峠道を越える途中に崖から落ちた。落ちたそこが虚海だった。
「どうしてあんな……っ!」
「洞主さまはああいうお方なんだ、気にするな。なにしろあまりに気が強くて、それでこの洞府をいただいて、体《てい》よく追い出された方だからな」
「そんなの、分かってる。……けど」
いきなり迷いこんだ異国。言葉も通じず、右も左も分からない。しかも鈴はまだ数えで十四にすぎなかった。
海辺の小さな村から、それよりは大きな村に移され、なにが起こったのか理解できないまま数日そこに押しこめられていた。やがて村人に連れられ、さらに大きな街へ連れていかれ、そこで旅芸人の一座に引き渡されたのだった。
三年と少し、一座と一緒に旅をした。鈴にはなにひとつ理解できないままだった。いろんな街を訪ね、たくさんの人々に会って、少なくともここが自分の知っている世界からは遠く離れた場所であることだけは理解した。天を突く山、高い塀《へい》に囲まれた街、変わった風俗、変わった言葉、なにもかにもが鈴の知るものとは違っていて、そう理解せざるをえなかった。
ひょっとして次に行く街こそ、鈴の理解できる言葉を喋《しゃべ》る人がいて、故郷へ通じているのかもしれないと、期待し落胆することに飽《あ》きてなにひとつ期待をしなくなったころに塵県《じんけん》にたどり着き、梨耀《りよう》に会った。鈴は四年いて、芸のひとつも覚えられず、雑役婦をしていた。
「……だって、言葉が分からないんだもの……」
どこに行っても、みんながなにを言ってるのか分からない。たくさん話しかけられて、鈴だってたくさん話をしたけど、少しも通じなかった。帰る道は分からないし、どうしていいのか分からなくて、毎日泣いてばかりいた。
意味不明の言葉で話しかけられ、分からないと言えば、嘲笑《ちょうしょう》される。鈴は次第に無口になった。話すことも話しかけられることも怖《こわ》かった。
——だから、塵県のある街で梨耀に会ったときには嬉しくて嬉しくて仕方がなかった。そのときからすでに梨耀は鈴を蔑《さげす》んではばからなかったが、たとえ罵《ののし》る言葉でも、理解できたことがどれほど嬉しかったか。
言葉が通じるのは梨耀が仙だから、仙になれば誰とでも話ができるのだと聞いて、鈴は梨耀に乞《こ》い願った。下女でもいい、どんなに辛《つら》い労働でもする。お願いですから昇仙させてください、と。
——そして百年、ここに捕らわれている……。
逃げようと思ったことなど数えきれない。だが、洞府を飛び出せば、梨耀は容赦《ようしゃ》なく仙籍から鈴を削除《さくじょ》するだろう。そうすればこの異国、鈴はまた言葉の分からない不運の中に舞い戻ることになる。
さあ、と老爺《ろうや》は鈴の肩を叩《たた》いた。
「戻ろう。休んでる暇はないからな」
鈴はうなずきながら凍《こご》えた指を強く組んだ。
——ああ、誰か……。
誰かあたしをここから助け出してください。