「陽子も苦労しているな」
「……玄英宮《げんえいきゅう》はいいですね。理解があって」
王となれば、男でもさすがに袍とはいかないものらしい。なのに尚隆の身なりはおおむね、慶国《けいこく》の高官より簡素だった。
とんでもない、と四阿《あずまや》の手摺《てすり》に腰を下ろした廷麒六太《えんきろくた》は顔をしかめる。
「三百年戦って、やっとこれで折り合いがついたんだ」
「戦い——なるほどな」
陽子は苦笑する。
「倭はいいよな。——洋装っての? あれ、ぜったい動きやすいもんな」
「詳《くわ》しいな。そんなにしょっちゅう倭に行くのか?」
まあな、と六太はにんまり笑う。
「これって麒麟《きりん》の数少ない特権だからな。——んーと、そんでも、一年に一回ぐらい」
言って六太は腕を組む。
「あっちから服を持って帰って、こういうの作ってくれって言っても、絶対に作ってくんねーの。花子《ものごい》の着る襤褸《ぼろ》みたいだって言ってさ」
「確かに、あちらの服は布地がいらないな」
言って陽子はちらりと六太を見る。
「……しかし、どうやって服を手に入れるんだ? 通貨がぜんぜん違うだろうに」
「そこはそれ……ま、いろいろと」
にっと笑った六太を陽子は呆《あき》れた気分で見た。
「麒麟《きりん》は仁道《じんどう》の生き物なのじゃなかったのかな?」
「深く追究すんなって」
言って六太は手摺《てすり》から庭へ飛び降りる。
「——楽俊《らくしゅん》、なんかいるか?」
回廊《かいろう》に近い池の縁に立って池の中をのぞきこんでいる楽俊の所に駆《か》けていった。
金波宮《きんぱきゅう》の南に位置する玻璃宮《はりきゅう》だった。何代か前の王が建てさせたという玻璃《ガラス》でできた温室。白い石の柱が立ち並び、壁も欄間《らんま》も玻璃、急傾斜の屋根もまた玻璃でできている。陽光が射し入った園林《ていえん》の中には澄んだ水を湛《たた》えた池が掘られ、沢を真似《まね》た小川が流れていた。美しい羽をした鳥と、池には魚が放されている。かなりの広さの園林を回廊が囲み、花の咲いた園林には四阿《あずまや》ふうの小亭がいくつか設けられていた。
「——昼寝をするにはいいところだな、ここは」
尚隆が言って、陽子は笑う。
「昼寝をする暇があるんですか、延王は?」
「雁《えん》は官吏《かんり》が勝手にやるから、俺はあまりすることがない」
「なるほど」
「政《まつりごと》は頼りになる官が見つかるまでが苦しい」
低く言われて、陽子は延王を見る。彼は苦笑した。
「登極《とうきょく》したばかりの王朝には情理が通用せぬ。そういうとき、麒麟はほとんど役に立たん。どれだけの時間でどれだけの臣下を集められるか、それに全てがかかっていると言っても良い」
「……そうですね」
「麦侯《ばくこう》はどうなった?」
陽子は息を吐《は》いて首を振った。
麦侯は名を浩瀚《こうかん》という。浩瀚はかつて慶国西岸、青海《せいかい》に面する麦州を治め、慶が偽王《ぎおう》によって混乱した際、最後まで偽王につかず、抵抗を続けた州侯だった。陽子が延王尚隆の助力を請《こ》うて偽王を討《う》つために起《た》ったとき、最初に尚隆から勧《すす》められたのは、浩瀚に連絡をとり麦州軍の援護を受けることだったが、実際には連絡をする前に麦侯は偽王軍によって捕らえられてしまった。
「……麦侯は玉座《ぎょくざ》がほしかったようです」
「ほう?」
起《た》った王が真実、王であるか、偽王であるか、宮中にある者でなければ判断が難しいものらしい。宮城《きゅうじょう》に遠い諸侯の多くは偽王を真の王と信じて偽王のもとに結集したが、浩瀚《こうかん》はこれに逆らい、偽王に対して抵抗を続けた。——これはいったいどういうことか、と官の非難は偽王に従った諸侯よりもむしろ浩瀚に集中した。
自ら玉座に起とうとあえて偽王に下らなかった。——ある官僚たちは浩瀚をそう糾弾《きゅうだん》し、これに対して別の一派は浩瀚を擁護《ようご》して朝廷を二分したが、実際に前者を裏付ける証言がいくつか出て決着をつけた。結局、浩瀚は麦州侯の任を解かれ、麦州で身柄を拘束《こうそく》されて処分を待っている。
「——なるほどな」
陽子の言を聞いて、延王は苦笑する。
「官は断固とした処分を、と言うのだけど、景麒《けいき》が反対して決着がつかない。たぶん、どこかで閑職を与えるという話になると思う」
「他人事《ひとごと》のように言うのだな」
陽子はほんのわずか笑って、これには返答しなかった。
「——新朝廷というものは、とにかく扱いにくい。だが、少し力を抜くのだな。王がしっかりしようとすると、奸臣《かんしん》は裏をかくことばかり考える。なめられたぐらいのほうが、やりやすい」
「そうでしょうか」
「王が目を光らせた程度で萎縮《いしゅく》する程度の奸臣なら、めくじらをたてる必要はない。どうせ大したことはできぬ」
「延王も大変でした? 即位したばかりのころは」
「まあな。——焦《あせ》ることはない。玉座に王がいれば、天災が滅る。それだけでもお前はなにかをしていることになるのだ」
「それだけ、というわけにはいきません」
「王の寿命が長いのはなぜだと思う? 五十年やそこらでは、できないことをやらなくてはならんからだ。どうせ終わりなどないのだ、気長にいけ」
陽子は首を傾けた。
「延王でも悩むことがあります?」
「頭の痛いことなら、いくらでもある。決して絶えることがない」
「大変ですね……」
「なに、問題がなくなってしまえば、することがなくて飽《あ》きるだけだ」
言って、五百年の長きにわたって一国を支えた王は園林《ていえん》を見やる。どこか皮肉とも自嘲《じちょう》ともつかない笑みが浮かんでいた。
「——そうなればきっと、俺は雁を滅ぼしてみたくなる……」