そうなんです、と鈴《すず》はうなずく。
——流されてしまったのね。かわいそうに。
とても辛《つら》かった、と鈴は訴えた。
——ええ、よく分かるわ。流された海客《かいきゃく》がどんなに辛いか、きっとこの世界のひとには分からないでしょうね。でも、わたしにはよく分かる。
ええ、本当に、本当に辛かったんです、と鈴は答える。
でも、あなたに会えてうれしい。——景王《けいおう》。とても、うれしい。
——わたしもよ。もう心配はいらないわ。同じ海客ですもの、わたしが鈴を助けてあげる。辛いことがあったら、なんでも言ってくれていいのよ。
ありがとう、景王。
そして——。
鈴は衾褥《ふとん》の中で寝返りを打った。そこから先はうまく想像できない。
梨耀《りよう》から景王のことを聞いて以来、幾夜となく繰り返した会話。
きっと心から哀れんでもらえる。ふたりで蓬莱の話をしたり、お互いの身の上や苦労を話し合ったりできる。鈴とは違い、相手は王、権にも財にも不自由のないひとだから、きっと鈴を助けてくれるだろう。
——でも、どんなふうに?
慶《けい》に呼び寄せて、王宮に住まわせてくれるだろうか。翠微洞《すいびどう》とは比べものにならないくらい豪奢《ごうしゃ》な王宮、鷹揚《おうよう》な召し使いたち。そこで景王と話をしたり、庭を散歩したりして暮らせるだろうか。それとも、梨耀を懲《こ》らしめてくれるだろうか。
——この子はわたしの同胞です。おろそかにしたら、許しませんよ。
景王がそう言って、梨耀がその足元にひれふす。きっと梨耀はくやしがるだろう。どんなにうらめしく思っても、王の威光の前には、従わざるをえないはず。
——いっそのこと、翠微洞の主《あるじ》を鈴にしましょうか。梨耀を鈴の下僕《しもべ》にして。
いいえ、と鈴は首を振るのだ。
そんなことは望んでいません。洞主さまが少しあたしに親切にしてくだされば、それで充分です。
——まあ、鈴は優《やさ》しいのね。
景王の笑みと、梨耀の感謝の目。
「……だめだ」
鈴はつぶやいた。
「洞主さまは、感謝なんかしないもの……」
それでも、と鈴は衾《かけぶとん》を抱きしめた。景王に会えれば、全てが良くなる。会えればいいのに。——会いにいけるといいのに。
ほわん、と目を閉じて、鈴は高い鐘の音《ね》を聞いた。外は冬の風が吹きすさんでいる。冬枯れた灌木《かんぼく》の枝を揺する音、複雑な起伏を描く峰に当たって風は地を這《は》うように不穏な音を奏でている。それにまじって高い音がした。
あわてて起きあがり、耳を澄ます。かん、と高い鐘の音が再びする。梨耀《りよう》が下僕を呼んでいる音だ。
鈴はあわてて飛び起き、臥牀《ねどこ》からすべりおりた。被衫《ねまき》の上からとりあえず背子《きもの》を羽織り、大急ぎで帯を締めながら房間《へや》を駆《か》け出す。
——こんな、真夜中に。
梨耀は下僕たちが起きていようと、寝ていようとおかまいなしだった。鈴が寝起きする房間《へや》には三人が住めるよう、三つの臥牀《ねどこ》があったが、ふたりはずいぶんと前に辞《や》めてしまった。仙籍をなくしても、梨耀から逃れたいと願い、それを実行できた恵まれた者たちだ。——なにしろ、彼女たちは言葉が通じるのだから。
鈴は甲高《かんだか》く続く鐘の音に急《せ》かされながら走廊《かいろう》を走り、梨耀の臥室《しんしつ》に飛びこんだ。すでに下僕がふたり駆けつけていて、房室《へや》に入るなり梨耀の叱咤《しった》が飛んでくる。
「——遅い。なんて愚図《ぐず》なんだ、お前は」
「申しわけありません。……寝ていたものですから……」
「寝ていたのはみんな同じだ。厩《うまや》の者が駆けつけてくるよりも、側仕《そばづか》えのお前が駆けつけてくるのが遅いとはどういうことだえ」
すでに駆けつけていた男女は目をそらした。うかつに鈴をかばえば、自分が梨耀の罵詈《ばり》のえじきになると分かっているのだ。
「申しわけございませんでした……」
「だいたい下僕は、寝ていても主《あるじ》のために気を張っておくものだよ。そのためにわたしはお前を養ってやっているのだからねえ」
はい、と鈴はうつむいた。山にある珍しい実りと、谷間にある小さな土地から上がる収穫、国庫から支給される少額の給付金、そうして山の麓《ふもと》にある田圃《たんぼ》を民に貸し出した小作料、麓にできた祠堂《しどう》の門前町から得る税。——これらのものが梨耀の収入の全てで、そこから鈴たちは食べさせてもらっている。
「まったく、十二人いる下僕のうち、飛び起きてきたのが三人とはどういうことだえ。——お前」
梨耀は中年の女を見る。
「冷えてたまらない。足をさすっておくれ。——笨媽《ほんま》」
梨耀は必ず、この嘲笑《ちょうしょう》も露《あらわ》な蔑称《べっしょう》で鈴を呼ぶ。
「遅れてきた罰だ。空気が悪いから入れ替えておくれ。他の者を叩《たた》き起こして、洞《どう》じゅうの掃除をするんだ。きっと埃《ほこり》のせいだろうからねえ」
いまからですか、と言いかけた言葉を鈴は呑《の》みこんだ。梨耀がやれと言えば、やらなくてはいけないのだ。
「まったく、掃除ひとつ満足にできない下僕《しもべ》に囲まれたわたしは不幸だよ。そっと静かにおやりよ。わたしは寝るのだからね」