——景王。
鈴は床《ゆか》をぬぐいながら涙ぐんだ。
同じ蓬莱の者が登極したと聞いて、鈴は心底|嬉《うれ》しかった。いつかどこかで会えるだろうか。会えたらどんなに嬉しいだろう。その時を想像するのは楽しいが、夢想から醒《さ》めるとこんなにもみじめだ。
——景王、あたしを助けて。
夜明けまでかかって掃除を済ませ、ほんのわずか眠って起きると、朝仕事が待っている。昼近くに起きた梨耀が掃除の点検をして、その出来が気に入らなかったらしく、鈴たちはもういちど大掃除をやり直さなくてはならなかった。その最中、鈴は壺《つぼ》をひとつ割った。
「なんて役立たずなんだ、お前は」
梨耀は壺の破片を鈴に投げる。
「この壺のぶん、食事は抜きだよ。——なあに、お前は仙《せん》だ。飢《う》えたぐらいで死にはしない。慈悲深いわたしが、仙に召しあげてやってよかったねえ」
鈴はとっさに梨耀を見上げた。
——景王に会えたら。そうしたら、こんな女なんか。
梨耀は眉《まゆ》を上げた。
「不満があるかえ? だったら、出ていってもいいのだよ?」
洞府を出ることは、すなわち仙籍を削除《さくじょ》されることを意味する。決して鈴がそれをできないのを承知で、梨耀はすぐにこれを言う。
「いえ……」
ふん、と梨耀《りよう》は鼻先で笑った。
「本当にくだらない娘だ、お前は。お前のような役立たずを置いてやるんだから、わたしもほとほと人がいい」
鈴は面《おも》ぶせ、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
出ていってやろうか、本当に。——そう思い、すぐに鈴はそれを呑《の》みこむ。
「少し待遇がよすぎるかね。——そうだ、お前、臥牀《ねどこ》なぞいらないだろう?」
鈴は梨耀を見上げた。
「暖かな臥牀で寝させてもらうほど、働いているわけじゃない。——そう自分でも思うだろう?」
梨耀は悪意を露《あらわ》に笑う。
「しばらく厩《うまや》に寝るがいいよ。あそこなら広いし、凍《こご》えることもない。——それがいい」
赤虎《せっこ》と一緒に寝ろ、と言われて鈴は青ざめた。赤虎は簡単に他人には馴《な》れない。世話をする男が決められているぐらい獰猛《どうもう》な生き物なのだ。
「お許しください……洞主さま」
鈴は心底震え上がった。梨耀は軽蔑《けいべつ》も露に鈴を眺める。
「やれやれ。本当に注文の多い下僕《しもべ》だ。自分をなんだと思っているのだろうね」
大仰《おうぎょう》に溜め息をついて、梨耀は笑った。
「じゃあ、代わりに甘蕈《かんきん》を採《と》っておいで」
「洞主さま——」
甘蕈はこの凌雲山《りょううんざん》の断崖に生《は》える灌木《かんぼく》に付着する苔《こけ》のような茸《たけ》だ。それを採るためには綱《つな》で身体を支えて、断崖《だんがい》に降りなければならない。
「明日の朝餉《あさげ》にする。それだったら、許してやろう」