すぐ下に地面があったんだ、と息を吐《は》いて、鈴はすぐにそれに気づいた。やわらかな毛並みの感触。——赤虎《せっこ》。
自分が赤虎の背にいることを知って、鈴は悲鳴をあげた。
「——いや! 降ろして!!」
ふっと足元の感触が消え失せた。投げ出される身体と、落下の感覚。夢中で宙に爪《つめ》を立て、がっきと襟首《えりくび》を掴まれた。赤虎だ、と悟《さと》って悲鳴をあげる間《ま》もなく、赤虎は首を振って鈴を宙に投げ上げた。その背に受けとめられて、鈴は必死で毛並みを掴む。
——ひどい、ひどい、ひどい。
やっと腰に巻いた縄のことを思いだし、これにすがって登ろうと思った。震える手で縄をたぐれば、やがてその感触が唐突に断ち切れる。
「——切れてる」
では、と鈴は赤虎の巌《いわお》のような首を見た。
この赤虎にすがって戻るしかないのだ。——だが、どうして梨耀以外には決して馴《な》れない赤虎が、鈴を洞府に連れて帰ってくれるだろう。
「……か、帰って」
鈴は赤虎に懇願《こんがん》する。
「お願いだから、せめて崖《がけ》の上に戻して」
じわりと背筋に生温《なまあたた》かいものが伝うのを感じた。血だ、と鈴は眩暈《めまい》を感じる。赤虎の牙《きば》にえぐられたのだ。実際、ひどい痛みがした。
「ねえ、お願い。助けて……!」
赤虎は動いた。崖に近寄り、そこに生《は》えた灌木《かんぼく》に寄る。ぐるる、と獰猛《どうもう》な声が鈴を促《うなが》した。役目を果たせ、と言っている。
鈴は片手で赤虎にしがみつき、おそるおそるもう一方の手を伸ばしたが、手が届かない。吹きすさぶ風がその身体を傾《かし》がせる。強い風、強い不安、歯の根も合わず膝《ひざ》も萎《な》えた鈴にはこの作業はあまりにも困難なことだった。
おずおずと赤虎の毛並みを掴《つか》んでいた手を放した。身を乗り出したとたんに赤虎の背から転《ころ》がり落ちる。岩肌にぶつかり、肌を掻《か》かれ、赤虎の爪《つめ》が鈴の帯を引っかけて止まる。再び背に投げ上げられ、それを三度繰り返して、鈴は赤虎の背に泣き伏した。
「どうして、……どうして」
これはあまりにも、ひどい。
「どうしてあんたの主人はこんなことをさせるの! どうしてそこまであたしを憎《にく》むのよ!」
鈴は赤虎を打つ。
「放りだしなさいよ! 殺せばいいでしょう! もうたくさんだわ!!」
赤虎は低く喉《のど》を鳴らすばかり。
——逃げてやる。
とっさに浮かんだ思考。でも、どこへ、と気弱な鈴が問う。逃げれば仙籍を削除される。そうしたらお前はおしまい。
「……慶《けい》」
景王の許《もと》へ行けば。——でも、どうやって。
景王に会って訴える。惨《みじ》めな境遇、梨耀の暴虐《ぼうぎゃく》。——でも。
鈴はキッと顔を上げた。
「そうよ……訴えるのなら、なにも景王でなくてもいいわ……」
鈴は赤虎《せっこ》の毛並みを引きむしるほど強く掴《つか》んだ。
「才王《さいおう》にお願いするわ。才国《さいこく》の王に。……梨耀《りよう》さまを懲《こ》らしめてください、あたしの仙籍を削除しないでくださいって!」
鈴は渾身《こんしん》の力で赤虎を叩《たた》いた。
「おゆき! 揖寧《ゆうねい》の長閑宮《ちょうかんきゅう》へ行くの!」
いきなり打たれて赤虎は身を反《そ》らす。宙で身をよじる赤虎の毛並みに鈴は渾身の力ですがりついた。
ただ流され、忍従だけで生き延びてきた鈴の、最初に行った闘争は、赤虎を御することだった。赤虎は鈴を振り落とそうと身もがき、やがて諦《あきら》めたように一路北東を指して風の中を駆《か》け始めた。琶山《はざん》の北東、才国の首都、揖寧をめざして。