あと少しで、積年の恨《うら》みを晴らしてやれるところだったのに。目の前で殺された家族、さらされるその首、助けてやりたくても助ける術《すべ》はなく、せめてさらされた骸《むくろ》を葬《ほうむ》ってやりたくとも、期日が過ぎるまでは遺骸《いがい》を渡してももらえない。その悔《くや》しさ——恨み。
妖鳥《ようちょう》の一羽が広途に舞い降り、人々はうなだれた。
「——やめよ!」
どうして州師が、と多くの者が溜め息を落とし、すぐに沍姆《ごぼ》を捜《さが》した。処刑《しょけい》に最後まで反対していた閭胥《ちょうろう》。彼女が知らせたのだ、他に考えられない。——だが、その沍姆の姿は広途になかった。
鳥の背から鎧《よろい》と毛皮を身に纏《まと》った兵士が降り立った。
「私刑《しけい》はまかりならぬ!」
どうして、と落胆《らくたん》の声が広途にうずまく。兵士はそれを見渡した。小章《かざり》は七、州師将軍である。彼は軽く手を挙《あ》げて、集まった人々に静まるよう示した。さらに二羽が舞い降り、そこから飛び降りた兵士が、広途に捕らわれた娘を解《と》き放ちに駆《か》け寄る。
「——お前たちの恨みは分かるが、恵侯《けいこう》はこれをお望みではない」
さらに落胆の声が満ちた。広途を見渡した男は、その落胆の声を痛みとともに聞いた。先王|仲韃《ちゅうたつ》は、民に恨みしか残さなかった。
清廉《せいれん》潔白で有名な官吏《かんり》、賄賂《わいろ》を求める高官があればこれを弾劾《だんがい》し、賄賂を差し出す下官があればこれを容赦《ようしゃ》なく問いただす。——仲韃はそんな官吏だった。彼が王に選ばれたとき、官僚の多くはそれを喜んだ。先々王のせいで腐敗した国家は仲韃によって甦《よみがえ》るだろう、と。
しかしながら腐敗を戒《いまし》めるために布告された法は、仲韃の期待ほどには効果をあげなかった。さらに法を追加し、みるみるうちに法典は膨《ふく》れ上がり、ふと気づけば官吏も民も着るものから使う食器に至るまで定められ、これにそむけば厳しい処罰が課せられていた。
法を用いるに、情けをもってしてはならぬ、という仲韃の言は一面、正しい。情けや慈悲で法を歪《ゆが》め、その先例が増えれば法は無力化する。処罰される者はいきおい増え、仲韃はこれを憂《うれ》えてさらに刑罰を重くする。あまりに過酷な法に不満の声があがれば、法を設けて不満の声を塞《ふさ》ぐ。みるみるうちに街の広途はさらされた罪人の骸で埋まり始めた。
仲韃が倒されたその年、一年の間に実に三十万の民が処刑された。仲韃の即位以後、処罰された者の数は六十万に達した。人口の五分の一にあたる数である。
「お前たちの恨みは、よく分かる。恵侯もお分かりになるからこそ、あえて汚名をきて仲韃を討《う》たれたのだ」
諸侯に弑逆《しいぎゃく》を勧《すす》めた恵侯|月渓《げっけい》は、州城に戻り国政から身を引いた。諸侯諸官は中央で政権を執《と》れと勧めるが、月渓はそれに応じていない。
「民が勝手に罪を裁き、私情をもってこれを処罰すれば、国の理《ことわり》が傾く。どれほど深い恨みがあろうとも、その権利なく法を弄《もてあそ》び、罪を定め、罰を下してはならない」
でも、と声があがるのを、男はさらに押し止める。
「公主はすでに、諸侯諸官の合議によって裁かれている。国の裁きに不満があるからといって、民が勝手に裁いてよいものではない。一例でもこのようなことがあれば、噂《うわさ》は他県他郷にも走る。裁きを与えたいと願っている民はお前たちだけではなく、それほど憎《にく》まれている者も公主だけではない。刑吏《けいり》のほとんどが私刑を恐れて隠れていることを知っているだろう。私刑は過酷なる刑罰よりも国を食い荒らす。国のためを思って自重してもらいたい」
うなだれた人々を彼は見渡した。
「我々は国を守り、恥じることなく新王にこれをお渡ししなくてはならない。私刑で荒れ果てた国を差し出して、王にいかにして仁治を願おう。諸侯諸官はそのために努力している。民にも力を貸してもらいたい」
娘は妖鳥《ようちょう》の背に担《かつ》ぎ上げられていく。沈黙が広途《おおどおり》に落ち、やがてすすり泣く声が満ちた。