——昇山《しょうざん》して天意を問うてみるがいい。
祥瓊の声が胸の中に刺さっている。月渓は充分に天意に見放されたであろう自分を自覚していた。だが、後悔はしていない。
外殿近くの一室に立ち寄る前、月渓は窓から雲海の南東を見る。
世界中央|五山《ござん》。そこにはすでに次の王を選ぶ麒麟《きりん》が生まれているだろう。二、三年もすれば、蓬山《ほうざん》より知らせがあって各祠《かくし》に黄旗《こうき》が揚《あ》がる。蓬山に麒麟あり、王の選定に入る、自覚ある者は昇山して玉座を望め、と。だが、決して昇山しないであろう自分を月渓は分かっている。
過酷なる法によって民が次々に屠《ほふ》られていった。麟麟の不調が伝えられた。失道《しつどう》ではと焦《あせ》った仲韃《ちゅうたつ》はさらに過酷な法を用意した。もしも失道だとしても、実際に麒麟が斃《たお》れ、実際に死亡するまでには数か月から一年の時間がかかり、麟麟が斃れてのち王が斃れるまでにはさらに数か月から一年の猶予《ゆうよ》がある。いったいその間にどれだけの民が失われるか。この王を倒さねばならぬ、と思った。——それこそが天の意《こころ》であったのだろうと思っている。
正当な王に国を渡すのだ。その日まで荒廃と闘うことが自分に下された天命であろう。
月渓は軽く南東、蓬山に向かって一礼する。
女官《にょかん》の先触れを聞いて、沍姆《ごぼ》は顔を上げた。雪の中を、里府《りふ》の馬を借りて駆《か》けること一昼夜、かろうじて間《ま》に合い、州師《しゅうし》が祥瓊を助けたと聞いた。そのまま州城に留め置かれ、沍姆は裁きを待っている。——裁かれるであろう。問われるままに自分が預かった少女が公主であったことに気づき、これを虐《しいた》げ、そのせいで里人《まちびと》が祥瓊を捕らえたことを語った。
入室してきた月渓に、沍姆は深く平伏する。
「顔を上げるがよかろう」
その声に、沍姆は顔を上げた。月渓の静かなばかりの顔を見上げる。
「公主には芳《ほう》を出ていただく。——行く先は言えないが、二度と芳に戻られることはないだろう」
そうか、と沍姆はうつむいた。やはりあの娘は許されたのだ。実を言えば月渓が己《おのれ》が下した裁きの軽すぎたことを悔《く》やんで、処罰してくれることを望んでいた。
「おまえを閭胥《ちょうろう》から罷免《ひめん》せねばならない」
「覚悟しておりました」
「しばらくは里人《まちびと》が辛《つら》く当たるだろう。里を離れることができるよう取り計らおう」
「いえ、結構でございます」
月渓は毅然《きぜん》と顔を上げた老婆《ろうば》を見る。
「見事な心ばえだが、なぜそのお前が公主を虐《しいた》げるまねをしたか」
「許せなかったんです」
沍姆は淡々と目を伏せる。
「仲韃《ちゅうたつ》はあたしの息子《むすこ》を殺した。恨《うら》んでも仕方ないことと分かっていても、実際にあの娘が目の前にいれば、当たらないではいられなかった。悔《くや》しくて憤《いきどお》ろしくて。しかも、あの娘はしゃあしゃあと告白したんだ。自分は公主だと。仲韃がなにをしていたのか知らなかったと。……あたしはそれが許せなかった」
そうか、と月渓はうなずく。
「公主には公主の責任があったのじゃありませんか。それを全部ほったらかしで、情けを乞《こ》う卑《いや》しさが許せなかった。あの小娘はやるべきことをやらなかった。家畜の世話を忘れれば、人は必ず食うに困る。ぬけぬけと世話をしなかったと言い、それで苦しいから情けをくれろと言う。……許すものかと思った」
「……なるほどな」
「あの小娘はいまもって自分の罪を分かっていない。だから償《つぐな》いのことなんか、考えない。目の前で親を殺されても、その痛みが自分だけのものだと思ってる。たくさんの人間が同じように辛い思いをして、それは責務を怠《おこた》った自分のせいなんだということが、これっぽちも分かってない」
「気持ちは分かるが、恨みは人になにひとつ与えない。我々はもう仲韃を忘れてもいいだろう。——違うだろうか」
はい、と沍姆はうつむく。
「よく知らせてくれた。お前の努力が里人に罪を犯させなかった。当の里人はしばらくお前を恨むだろうが、彼らに代わってわたしから礼を言う」
沍姆は平伏した。息子を亡くした日に涸《か》れたはずの涙が、床《ゆか》についた掌《てのひら》にこぼれかかった。